
トーマス・マンの『魔の山』を読んでいて、非常に驚かされるのは、
学術論文のような文章が少なからずあること。
『魔の山』の第五章・第7節「まぼろしの肢体」で、
主人公ハンス・カストルプの関心は解剖学や生理学へ向かい、
高価な学術書を注文して取り寄せ、「生命とは何か」と問い始める。
この「生命とは何か」という問いは、(「時間とは」という問いと共に)
『魔の山』全編で繰り返されるテーマとも言え、重要な問いかけになっている。
ある場所では、次のような答えを導き出す。
生命とはいったい何であったか。それは熱だった。形態を維持しながらたえずその形態を変える不安定なものが作り出す熱、きわめて複雑にしてしかも精巧な構成を有する蛋白分子が、同一の状態を保持できないほど不断に分解し更新する過程に伴う物質熱である。生命とは、本来存在しえないものの存在、すなわち、崩壊と新生が交錯する熱課程の中にあってのみ、しかも甘美に痛ましく、辛うじて存在の点上に均衡を保っている存在なのだ。生命は物質でも精神でもない。物質と精神の中間にあって、瀑布にかかる虹のような、また炎のような、物質から生れた一現象である。生命は物質ではないが、しかし快感や嫌悪を感じさせるほど官能的なもので、だから、自分自身を感じうるほどまでに敏感になった物質の淫蕩な姿、存在の淫らな形式である。(上巻572~573頁)
福岡伸一氏も、「生命とは何か」と問い続けている現代の生物学者の一人だが、
福岡伸一氏は、その答えを「動的平衡」という言葉で表現する。
自身の著書『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』の刊行時、
福岡伸一氏は次のようにコメントしている。

私たちは、自分は自分だ、自分の身体は自分のものだ、という風に、確固たる自己の存在を信じているけれど、それは実は、思うほど確実なものではない。私たちの身体は、タンパク質、炭水化物、脂質、核酸などの分子で構成されている。しかし、それら分子はそこにずっととどまっているのでもなければ、固定されたものでもない。分子は絶え間なく動いている。間断なく分解と合成を繰り返している。休みなく出入りしている。実体としての物質はそこにはない。一年前の私と今日の私は分子的にいうと全くの別物である。そして現在もなお入れ替わり続けている。
つまり、私たちの身体は分子の「淀み」でしかない。それも、ほんの一瞬の。私たちの生命は、分子の流れの中にこそある。とまることなく流れつつ、あやういバランスの上にある。それが生命であり、そのあり方を言い表す言葉が、本書のタイトル、<動的平衡>である。本書は、最初から最後まで、<動的平衡>とは一体何なのか、どのように成り立ち、いかにふるまうかを考えた本である。
爪や皮膚、髪の毛であれば、絶えず置き換わっていることが実感できる。しかし私たちの全身の細胞のそのすべてで置き換わりが起きている。固い骨や歯のような部位でもその内部は動的平衡状態である。お腹の回りの脂肪も、たえず運び出され、たえず蓄えられている。分裂しないはずの脳細胞でもその中身やDNAは作り替えられる。
なぜそれほどまでに、あえどのない自転車操業のような営みを繰り返さねばならないのか。それは、絶え間なく壊すことしか、損なわれないようにする方法がないからである。生命は、そのようなありかたとふるまいかたを選びとった。それが動的平衡である。

この考えを一言で表現すると、
「生命とは、物質が交代しながらも形はそのまま持続するということ」
になると思うのだが、
実は、新潮文庫『魔の山』(上巻)に、次のような一文がある。
生命とは、物質が交代しながらも形はそのまま持続するということですから。(554頁)

これを読んで、私は、即座に、福岡伸一氏の提唱する「動的平衡」を思い出したというワケ。
「動的平衡」の考えの元になったのは、
1930年代後半に活躍した生物学者ルドルフシェーンハイマーが提唱した「ダイナミック・イクイリブリアム」にあると福岡伸一氏は言う。

私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic wquilibrium(ダイナミック・イクイリブリアム)である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。(中略) 生命とは動的平衡にある流れである。(『生物と無生物のあいだ』167頁)
『魔の山』が刊行されたのは1924年で、(執筆開始は1913年)
そのときすでに、
生命とは、物質が交代しながらも形はそのまま持続するということですからね。
という一文をトーマス・マンが書いていたことにも驚かされるのである。
さらに、『魔の山』には、次のような文章もあるのだ。
原始的生命、換言すれば、すでに生命でありながらまだ原始的であるような物は存在しえないのである。
しかし論理的には存在しえなくても、結局そういう物はなんらかの形で存在しているにちがいない。なぜなら、偶然発生、換言すればと無生物からの生命の発生いう観念をそう無造作に斥けることはできないからである。ひとびとが外部自然においてなんとかして埋めようと空しく企てたあの深淵、つまり生命と無生命との間の深淵は、自然の有機的内部世界では、なんとか埋められ、架橋されているに相違ない。無限に分解を続ければ、合成されてはいるがまだ組織されていない、生命と無生命との中間「単位」、つまり生命秩序と単なる化学との中間をなす分子群に到達するに相違ない。しかしこの化学的分子に到達した時、有機自然と無機自然との間の深淵以上に神秘的な深淵、すなわち物質と非物質の間の深淵がすぐそこに口を開けているのに気づく。(上巻584~585頁)
「無生物からの生命の発生という観念」「生命と無生命との間の深淵」「生命と無生命との中間『単位』」などの言葉が、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』を彷彿させる。

ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。 つまり一切の代謝を行っていない」。あたかも物質のようだ。しかし「ウィルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、 そして最大の特性がある」。自己複製能力を持つことだ。この能力は、 タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子、核酸= DNAもしくはRNAに担保されている、という。「ウィルスは細胞に寄生することによってのみ複製する」。かくして著者は語る。「ウィルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといっても良い。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。 本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義し直してみたい。(『生物と無生物のあいだ』38頁)
福岡伸一氏が問いかける80年以上も前に、
すでにトーマス・マンが『魔の山』で問題提起していたことにも驚くのである。
『魔の山』を読んでいると、読んでいる途中にいろんなことを思い出す。
太宰治の『パンドラの匣』や村上春樹の『ノルウェイの森』を思い出したことはすでに書いているが、その他にも、堀辰雄の『風立ちぬ』や福永武彦の『草の花』など、次々と思い出され、その度に読書は中断され、調べものをしたりして、読書はなかなか進まないのである。
これが「世界的名作」所以なのであろう。