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一人読書会『魔の山』(トーマス・マン)④ ……第四章は、到着3週目迄の話……




魔の山』読了計画の4回目。
197頁から381頁までの第四章を(3日をかけて)読んだ。

第一章が、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着当日、
第二章は、ハンス・カストルプの少年時代、
第三章は、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着2日目が描かれていたが、
第四章には、
「必要な買物」
「時間感覚についての補説」
「フランス語をしゃべってみる」
「政治的嫌疑」
「ヒッペ」
精神分析
「種々の疑惑と考慮」
「食卓での談話」
「不安の昂進。ふたりの祖父とたそがれどきの舟遊びとについて」
「体温計」

という10の節があり、


物語の進む速度が、それまでよりも少し速くなっていて、
ハンス・カストルプのベルクホーフ到着3日目から3週目の直前迄が描かれている。
よって、それまでの三つの章に比べ、頁数も増え、
第一章(33頁)、第二章(36頁)、第三章(115頁)に対し、
第四章は184頁で、
第一章から第三章までの合計頁数(33+36+115=184)と同頁数になっている。

第四章では、
冒頭、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着3日目が描かれているのだが、
天気が急に変わり、真夏であるにもかかわらず、雪が降り始める。
開始早々、不穏な空気が醸し出されるのだ。


三日目には、まるで自然がひっくり返っていっさいの秩序が崩れ去ってしまったかのような具合になった。(198頁)

ここでは季節の区切りがとても曖昧なんだね。つまり季節がまじり合っていて暦のとおりには事が運ばないんだ。
(中略)
要するにここでは、冬のような日、夏のような日、春のような日、秋のような日といった日はあるが、いわゆる四季というものはないんだ。(200頁)

このように季節の概念が破壊され、
第二節「時間感覚についての補説」では、時間の概念までも崩される。


間断なく同じ生活が続く場合には、時間の体験が失われる危険があって、この時間体験というものはわれわれの生活感情そのものときわめて密接な関係にあり、一方が弱くなると、それに伴って他方もみじめに委縮する。(221頁)

時間が長くて退屈だというのは、本当は単調すぎるあまり、時間が病的に短縮されるということ、のんべんだらりとした死ぬほど退屈な単調さで、大きな時間量がおそろしく縮まるということを意味する。一日が他のすべての日と同じであるとしたら、千日も一日のごとくに感ぜられるであろう。そして毎日が完全に同じであるならば、いかに長い生涯といえどもおそろしく短く感じられ、いつの間にかすぎ去っていたということになるだろう。習慣とは、時間感覚の麻痺を意味する。あるいは少なくともその弛緩を意味する。青春期の歩みが比較的ゆっくりとしているのに、それ以後の年月が次第にせわしい急ぎ足で流れすぎていくというのも、この習慣というものに原因があるにちがいない。新しい習慣を持つことや習慣を変えることなどが、生命力を維持し、時間感覚を新鮮なものにし、時間の体験を若返らせ強め伸ばすということ、それがまた生活感情全体の更新を可能にする唯一の手段であることをわれわれは心得ている。(221~222頁)


魔の山』の語り手によれば、
物語というものは二重の時間があり、
一つは、「物語自体が必要とする時間」、
もう一つは、「物語内の伸縮自在な時間」で、
「物語自体が必要とする時間」は、
物語内で経過する時間(主人公がベルクホーフに滞在する期間、年月)のことで、
「物語内の伸縮自在な時間」とは、
語り手による(短くも長くもなる)恣意的な時間配分のこと。
これは、この『魔の山』という物語が、最初はかなりゆっくり進行しているものの、
主人公の滞在が長引き、退屈で単調な日々が続くと、
一日が他のすべての日と同じようになり、千日も一日のごとくに感ぜられ、
後半は物語が一挙に進むことを予言しているかのようだ。
はたして……


第四章では、ショーシャ夫人についても多くの頁が割かれている。
第三章のところで、私は、ショーシャ夫人について、次のように記した。

ショーシャ夫人とは最悪の出会いであったが、
ハンス・カストルプが、ショーシャ夫人のことが気になり始めているのを感じる。


その夜、ハンス・カストルプは、ショーシャ夫人の夢を見る。


彼が七つの食卓の食堂に座っていると、がたん、ぴしゃんとものすごい音でガラス戸が締まり、白いスウェーターの、片手をポケットに突っこみ、片手を後頭部にやったショーシャ夫人が姿を現わした。ところでこの不作法な女性は、上流ロシア人の席ではなくて、ハンス・カストルプのところへ音もなくやってきて、無言で片手を差しだし、彼の接吻を許したのである。̶̶しかし彼女が差しだしたのは、手の甲ではなくて、手のひらだった。ハンス・カストルプは彼女の手に、爪の両側の皮膚がささくれ、幅が広くて、指の短い、手入れのいき届いていない掌(てのひら)に接吻した。すると、彼が昼間、試みに名誉の重荷を免ぜられた身になって不名誉のもつ無限の利点を享楽してみようとしいた際に、身内からこみあげてきたあの放縦で甘美な感情が、いまふたたび頭の天辺から足の爪先まで滲み渡った。それは、夢の中でのほうが、現実の場合よりもはるかに強烈であった。(195~196頁)


いやはや、今後、二人の関係はどうなっていくのか……
俄然、楽しみになってきた。



第四章では、ハンス・カストルプは、
ショーシャ夫人と食堂で目が合う、合わないに一喜一憂するようになり、
ショーシャ夫人への愛の高まりと同時に、
プリービスラフ・ヒッペという名の少年を思い出す。
ハンス・カストルプが13歳の高等中学校第三学年前期生であった頃、
他のクラスにいた少年だ。
ハンス・カストルプは、ヒッペの細長くて少し斜めになった「キルギス人のような目」に魅了され、恋心を抱くのだ。


彼に興味を持ち、彼を目で追いまわし、彼を賛美とでもいうような特殊な関心をもって眺め、学校へいく道ですらも、ヒッペが級友と談笑する様子を観察したり、ヒッペの話したり笑ったりするのを見たり、ヒッペの気持のいいかすれ声、はっきりしない嗄れ気味の声を、遠くから聞き分けるのをたのしみにしていた。(254頁)

こうした悶々とした日々を1年近くも過ごした後、
ようやくヒッペに話しかけ、鉛筆を借りるのだが、その鉛筆の先を削り、
こぼれ落ちた削り屑を1年もの間、机の引き出しに保管していたという。
かなりキモイ思い出であるが、(笑)
このヒッペと、ショーシャ夫人が似ているというのだ。
ハンス・カストルプのショーシャ夫人への想い(異性愛)が、
なぜ少年ヒッペへの想い(同性愛)と重なるのか、
よく解らなかった私は、このことについて他の文献で少し調べてみた。
すると、トーマス・マンは、精神的なバイセクシュアルであることが判った。
トーマス・マンには同性愛の指向があったのだ。
(そういえば、トーマス・マンには、『ヴェニスに死す』という、著名な男性ドイツ人作家が旅先のヴェニスで美少年に心を奪われ、没落して死に至るという名作があった)
さらに、トーマス・マン特有のエロス観も影響しているという。
ショーシャ夫人は女性だが、結核患者であるため、出産には縁がない存在で、
ヒッペとの同性愛も、出産とは無縁だ。
こうした生殖とは縁がない関係こそが、
純粋で無拘束なエロスの発現形態だと考えていたようだ。
一対の男女が子をなして国に貢献するというような価値観に当てはまらない精神、
近代の拘束的な家族制度に背を向けたデカダンスの精神とでも言うのか、
こういうところにもトーマス・マンの人生観、芸術観が表出されているように思った。



ハンス・カストルプのベルクホーフでの3週間という滞在期限が近づいてくる中、
ハンス・カストルプは風邪をひく。
体温を測ってみると37度6分。
ベーレンスの診察を受けると、肺浸潤だと診断される。
結核の初期症状だ。

実をいうと、私は君に眼をつけていた。カストルプ君、いまだから申上げるが̶̶それもあなたとお近づきになる無上の光栄に浴した最初からなのですな。しかも私は、あなたが自分はここに属すべき人間だと、そのうちに悟るだろうということも、かなりの確信をもって考えていたのです。これまでにも、ここへ遊び半分に上ってきた連中で、あたりをねめ回しているうちに、そういう傍観者的な物好きな態度をきれいに捨てて、もっとゆっくり滞在したほうがよさそうだと̶̶「よさそうだ」どころじゃありませんぞ、ここのところをしっかりとのみこんでいただきたいが̶̶忽然として思い知った例はいくらでもありますからな。(375頁)


ベーレンスはこう言って、ハンス・カストルプの病状を詳しく説明し、
いま療養所を出て下界で暮らしたら肺は間違いなく駄目になるし、
一方で改善にも時間がかかると言い、
したがって、ここに留まって安静に努めるのが一番だとハンス・カストルプに告げる。
こうしてハンス・カストルプは患者の烙印を押され、
もはやベルクホーフの傍観者ではなくなったのだった。



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