
旅と同時並行で地元紙(佐賀新聞)に連載していた紀行文、
「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」を元にして、
カテゴリー「徒歩日本縦断(1995年)の思い出」を再開させた。
今回は、その第11回目。

「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」⑪沖縄本島縦断
(※新聞掲載時よりも、漢数字を算用数字にしたり、改行を多くして読みやすくしています)
10月31日午後6時に鹿児島を出航した那覇ゆきのフェリーは、


途中、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に寄港し、


25時間後の11月1日午後7時に那覇港に到着した。

船に乗って移動すると、沖縄が本土からどれだけ離れているかを体で感じることができる。
南下するにつれ、風がやさしくなり暖かくなる。
そして海がエメラルドグリーンに変わり、色が鮮やかさを増していく。

11月2日、ぼくは沖縄本島最北端の辺戸岬(へどみさき)を出発した。

沖縄本島の観光名所といえば、中部から南部に集中しているが、
ぼくが縦断してみて心に残っているのは、ほとんどが北部である。
本島の西側を海に沿って走る国道58号線では、
辺戸岬を出発すると、本部(もとぶ)半島のつけ根あたりまで、
右に紺碧の海を、

左に原生林や古集落などを見ることができる。

車の通行も少なく、歩道もしっかり確保されているので、とても安全だ。
もちろんハブの心配もない。
11月というのに、まだセミが鳴いている。
ぼくはTシャツに半ズボンで歩いているが、それでも汗が噴き出てくる。

太陽の光の強さが違う。
海も樹木も草花もギラギラしている。
原色の世界だ。

途中、道端で果物を売っているネーネー(決しておばさんと言ってはいけない)は、
「歩きながら食べなさい」
とミカンをくれたし、
立ち寄った売店のネーネーからは缶コーヒーをもらった。

わざわざ車を止めて「乗りなさい」と誘ってくれる人もいた。
沖縄は、本当に、心のやさしい人の多いところだ。
11月5日、本島南端にある《ひめゆりの塔》は観光客でいっぱいだった。


次から次に貸切バスがやってきて、
慰霊塔の前で記念写真を撮り、みやげ物を買い、
15分ほどであわただしく去っていく。

人ごみが嫌いなぼくは、そこからしばらく歩いた場所にある第一外科壕跡に行ってみた。

静かだった。
誰もいなかった。
南の方を見ると、サトウキビ畑が広がり、
その向こうに海があった。

【余禄】
トンネルの中にはゲジゲジみたいなものがたくさんいてビックリした。

「ヤドカリ横断注意」の立て看板があった。

「祖国復帰闘争碑」は、
沖縄の復帰闘争の歴史を語る象徴として1976年4月に、辺戸岬に建てられた。

碑文にはこう記されている。
国のそして世界の友人に贈る。吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の叫びだ。(中略)1972年5月15日、祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのではない。闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たに仕合うためにあり、人類が永遠に生存し、生きとし生きるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
辺戸岬から与論島まで直線距離にしてわずか22kmほど。
那覇市から沖縄市あたりまでと同じ距離だ。
琉球弧(奄美大島から沖縄、台湾までの約1200kmの距離を連なる100以上の弧状列島のこと)の
島々である南西諸島は、一括りにできない複雑な面をもっている。
1609年に薩摩・島津軍が琉球侵攻を果たし併合を行う以前、
奄美群島は琉球王府の直轄地だった。
特に沖縄本島に近い与論、沖永良部島には今でも琉球文化が色濃く残っている。
琉球弧の島々である「沖縄」と「奄美」が引き裂かれてから400年以上が経過しており、
その歴史的な溝を埋めることは簡単なことではない。
沖縄返還は、「祖国」復帰だったのか、「本土」復帰だったのか、「日本」復帰だったのか。
返還から半世紀以上経っても、基地問題に変化はない。
沖縄本島北端の辺戸岬に建つ碑は、その無念の思いを伝えている。

※「ふらふらぶらぶら 日本縦断の旅」➀~⑫
(タイトルをクリックするとレポが読めます)
➀宗谷岬から留萌へ
➁留萌から長万部へ
③長万部から函館、青森へ
④秋田から象潟、鳥海山へ
⑤「良寛」ゆかりの地を巡る
⑥天の橋立、城崎温泉へ
⑦余部鉄橋、松江、出雲へ
⑧萩と、仙崎と、金子みすゞ
⑨八代大花火、球磨川星花火
⑩佐多岬に到着、そして
⑪沖縄本島縦断
⑫日本最南端・波照間島にて