
古典と呼ばれる「山の名著」ではなく、
一般的な登山愛好家にとっての「山の名著」を紹介するブックレビューの6回目は、
『スタインベック短編集』(新潮文庫)より「朝めし」。


『スタインベック短編集』は13編の作品が収められた短編集で、
本来なら“一人読書会”で紹介しなければならないほどの名短編揃いの古典なのだが、
今回は、その13編の中から、「朝めし」という1編だけを採り上げ、
一般的な登山愛好家にとっての「山の名著」、いや「名作」として紹介したい。
とは言っても、この「朝めし」という短編は、山とはまったく関係ない作品である。
アメリカ南部の季節労働者たちが野外で朝ごはんを食べるだけの、
わずか4頁半ほどの、短編小説と言うよりは、
(川端康成の言うところの)『掌の小説』(たなごころのしょうせつ)とも呼ぶべき、
小さな小さな物語である。

こうしたことが、私を、楽しさでいっぱいにしてくれるのである。どういうわけか、小さなこまごまとしたことまでが目の前にうかびあがってくる。ひとりでに、いくどとなく思いだされてきて、そのたびごとに、埋もれた記憶のなかから、さらにこまかなことが引出され、不思議なほど心のあたたまる楽しさがわきあがってくるのだ。

こういう書き出しで始まり、
それだけのことなのだ。もちろん私にも、なぜそれが楽しかったのか、理由はわかっている。だが、そこには、思いだすたびにあたたかい思いに襲われるある美の要素があった。

という文章で終わる。
その間に70行の文章(物語)が挟まっている。
主人公の「私」が、
夜が明けて間もない頃に田舎道を歩いていると、テントがあり、
そこでは赤ん坊を抱いた若い女がストーブを焚いて朝食の準備をしている。
テントからは、若者と老人が出てきて、主人公と「おはよう」とあいさつをし、
老人が「私」に朝めしを一緒にどうだと言い、
みんなで焼き立てのベーコンとパンを食べ、淹れ立てのコーヒーを飲む。
そして、主人公は彼らと別れる。
「あらすじ」にすれば、たったこれだけの話なのだが、
この中に、人間の営み、人生の歓びがすべて詰まっていると言えるほどの名品なのである。

私がこの短編「朝めし」を読むキッカケになったのは、
開高健の次の言葉に由る。
いきずりの旅行者が野宿している貧しい綿つみ労働者の一家に朝飯を御馳走してもらって、それがすんだあとまた旅を続けるという物語で、文庫本にして五ページあるかないかというだけのものである。小説とも物語ともいえないし、ルポというものでもない。もし記述ということばを使うなら、作者がほんとに書きたくて書いたことがすみずみまでわかる、句読点の一つ一つにまで爽やかな息づかいのこもっていることがよくわかる、ある一瞬についての記述である。野外のひきしまった早朝の空気のなかでジュウジュウとはぜるベーコンの音がそのまま聞こえてきそうなのである。ただそれだけのことなのである。けれど、こういう絶品を読むと、文学はこれでいいのだと思わせられてしまう。『白いページ』(1975年、潮出版社刊)
山でのテント泊でもいいし、河原でのキャンプでもいいのだが、
野外で食べると、不思議と何でも美味い。
肉体を酷使した後だと、一層美味い。
なぜ美味いのかを言葉にして表現するのは難しいが、
「朝めし」は、ベーコンとパンと珈琲だけで、その美味さを表現する。
この短編を読むと、
誰しも、きっと、強烈に、ベーコンとパンを食べ、コーヒーを飲みたくなるのだ。(笑)



スタインベックは、
『二十日鼠と人間』
『怒りの葡萄』
『エデンの東』
など、中編・長編作家のイメージが強いが、
これほど装飾を削ぎ落とした、無駄な言葉が一つもない文章が書け、
人生の一瞬を切り取って、静謐かつ躍動的な文章が書けるのだと、
驚かされ、感動させられる。

私が所持している新潮文庫版『スタインベック短編集』は、
昭和57年の46刷なのだが、


買って40数年の間に、「朝めし」は数十回は読んでいる。
4頁半ほどなので、ゆっくり読んでも5分とかからない。
長い人生のたった5分。
読まずに死ぬのは勿体ない。
※朗読はコチラで聴くことができる。