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『草すべり その他の短篇』(南木佳士) ……過ぎゆく時間が愛おしくなる傑作……




古典と呼ばれる「山の名著」ではなく、
一般的な登山愛好家にとっての「山の名著」を紹介するブックレビューの4回目は、
南木佳士の『草すべり その他の短篇』(2008年7月、文藝春秋刊)。
山歩きの短篇集だ。




南木佳士】(なぎ けいし)
1951年、群馬県に生まれる。
東京都立国立高等学校秋田大学医学部卒業。
佐久総合病院に勤務し、現在、長野県佐久市に住む。
1981年、内科医として難民救援医療団に加わり、タイ・カンボジア国境に赴き、
同地で「破水」の第五十三回文學界新人賞受賞を知る。
1989年「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞受賞。
1990年、パニック障害を発症。
呼吸器科医として、肺ガンで死んでいく患者を多く看取りすぎた心労が原因とされている。
2008年『草すべり その他の短篇』で第36回泉鏡花文学賞を、
翌年、同作品で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する。
ほか主な作品に、
阿弥陀堂だより』、『医学生』、『山中静夫氏の尊厳死』、『海へ』、『冬物語』、『トラや』などがある。
阿弥陀堂だより』、『山中静夫氏の尊厳死』は映画化され、静かなブームを巻き起こした。




あなたは、積極的に同窓会に出たがるタイプだろうか?
それとも、同窓会のようなものにはなるべく出席したくないというタイプだろうか?
私は後者で、小学、中学、高校、大学と、どの同窓会にも一度も出たことがない。
人生を振り返ることは嫌いではない。
だが、過去に関わったことのある人たちと、今、会いたいとは思わない。
過去に出会った人たちを頭の中で考えるということと、
その人たちと現在会うということは、まったく別次元のことだからだ。
とくに女性とは……
それが、過去の自分が眩しいと感じた女性であったならば、
なおのこと会いたいとは思わない。
それは単なるロマンチシズムだろうか?
グロテスクな現実と向き合いたくないという逃避の一種だろうか?

この本の表題作「草すべり」は、
高校で2年間一緒のクラスにいた女性と40年ぶりに再会し、
二人で浅間山(前掛山)に登る話だ。



女性の名は、兼松沙絵。
高校三年になるときに父親の仕事の関係でロンドンに行き、
小説の主人公の「わたし」とはそれ以来会っていない。
(この小説には〈私〉〈僕〉などの主語がない。どうしても書かなければならないときは括弧でくくった「わたし」という表記になっている)
きっかけは、沙絵からきた「浅間山に一緒に登りませんか?」という葉書だった。
沙絵は、小学生のとき、軽井沢の山の家から祖父に連れられて何度も浅間山に登ったという。
今年でその家が人出に渡るので、
この夏、最後に山の家に行き、浅間山に登ってみたいとのこと。
ルートは、沙絵が指定してきた。
車坂峠からトーミの頭を経て草すべりを下り、湯の平から前掛山に登るコース。
累計標高差は1300m。
帰りに急な草すべりを登り返さなければならない。
休憩を入れたら、たっぷり8時間はかかるコースだ。


先に立った沙絵は、路をよく知っていて、ぐんぐん登ってゆく。
高校生のころから小柄だったが、後ろから見ると小学校の高学年くらいのからだつきだ。
さすがに腰から尻にかけては初老にさしかかる女性に特有の肉のたるみが内からズボンを押し下げているが、それでも、身のこなしは充分に若い。
「わたし」は沙絵のスピードについて行くのがやっとだ。


かなわねえなあ。

「わたし」はそう思う。
現在もそうだが、高校時代も沙絵にはかなわなかった。
特に英語。
記憶の中では、沙絵はいつも「わたし」の前の席。
リーダーの時間、沙絵は文庫版の『論語』を読んでいる。
教師に訳を指名されると、後ろを向き、「どこ?」と訊いてくる。
教えてあげると、沙絵はおもむろに教科書を開き、流暢な発音で音読し、辞書も見ずに訳してゆく。
それは、昨夜必死になって訳文を考えた「わたし」の訳よりはるかにこなれた言い回しだった。
そんな沙絵が、ほぼ40年経って、また前にいる。


写真、ありがとう。

唐突に、沙絵が言った。
即座にあの写真のことだなと「わたし」は分かる。
高校時代、「わたし」は父のお古のカメラでよくクラスのみんなを撮っていた。
現像したモノクロ写真をアルバムに貼り、手書きのコメントをつけてクラスのみんなに公開していたのだ。
あれは、たぶん、昼休みで、
授業中と同じ姿勢で文庫本を読んでいる沙絵の姿を斜め後ろから撮ろうとしたときだった。
沙絵が誰かに呼びかけられて振り向いたところでシャッターを押してしまったのだ。
偶然の作だったが、シャッタースピードを速めに設定していたためか、
ぶれもなく、鼻筋の通った小ぶりで色白の上品な微笑がうまく捉えられた。
冒しがたい、いい顔だった。
お気に入りのこの写真を引き伸ばして、聖像として「わたし」は秘匿した。
こういう顔の女子が女になり妻になり母になってゆくのは大いなる不条理だと、
17歳の精液くさい「わたし」は思った。
沙絵が英国に行くと知って、「わたし」はこの大事にしていた写真を餞別として沙絵にあげたのだ。


あれからたくさん写真を撮られたけど、わたしはあのときのわたしの顔がいちばん好きだな。

下山途中、草すべりの登り返しの所で、沙絵が急にペースダウンする。
上体がふらついている。
顔は異様に青ざめている。
およそ40年ぶりに会った沙絵の身に何が起こっているのか知る権利はないが、この急激な体力の消耗は異常だった。
それは、何かの病気を推測させた――



登山の復路は、人生の復路にも似ている。
からだは疲れ切っている。
傷つき、耐え難い痛みに襲われることもある。
そして、先は、そう長くはない。
だからこそ、過ぎゆく時間が愛おしい。




この短篇集には、表題作の他、「旧盆」「バカ尾根」「穂高山」の三篇が収録されている。
他の作品も、山歩きを主題にしている。

ただ、負け惜しみではなく、山歩きは人生の復路に入ってから始めたほうが、より多くの五感の刺激をからだに受け入れられる気がする。若いからだは余剰の熱を外に向けて発散するばかりだが、老い始めると、代謝の低下したからだは外部からのエネルギーを積極的に取り込むようになる。鳥の声、針葉樹林の香り、濃すぎる青空、鮮やかな緑の苔、沢の水音、木漏れ日。「旧盆」

山歩きはどこかしら書く作業に似ており、書かれた言葉が次の言葉を呼んで物語の世界が少しずつ様相を変えながら構築されてゆくのとおなじく、汗にまみれて到達した頂からの眺望が次の目標を無意識のなかに植え込み、あらたな山域の清浄な大気はさらに先へと向かう意気の燃料となる。「バカ尾根」

どの作品にも印象的な文章が続く。
南木佳士の文章は、岩に染み入る水滴のように、じわじわと心にも染み込んでくる。
こんな体験は、既存の「山の名著」では絶対に味わえないものだ。



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