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映画『ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方』……今だからこそ……




オリンピックに「近代五種」という競技がある。
1人の選手が1日の間に、フェンシング、水泳、馬術、レーザーラン(射撃+ラン)というそれぞれに全く異質な5種類の競技に挑戦する、万能性を競う複合競技だ。
5種類のスポーツをたった1日で競うので、かなりハードだ。
故に、「キング・オブ・スポーツ」とも呼ばれる。
古代オリンピックで行われたペンタスロン(五種競技)にならい、
近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵が、
「近代オリンピックにふさわしい五種競技を」と考案したもので、
自ら「スポーツの華」と称したと言われている。
それぞれに固有の技術と理論を必要とされる個々の種目をマスターするだけでなく、
競技の全体像を常に頭で描き、自分の体力を計算しながら、
種目が変わるごとに求められる状態に体を切り替えていく。
体力に加えて、
強い精神力で自分の身体をコントロールできた選手のみが栄冠手にすることができる、
まさに「キング・オブ・スポーツ」であり、
全スポーツの頂点を目指す競技がこの近代五種といえる。


また「十種競技」というのもある。
男子十種競技の場合、原則的に、
一日目:100m、走幅跳砲丸投走高跳、400m
二日目:110mH、円盤投棒高跳やり投、1500m
の競技日程で行われ、
各種目別得点を採点表により総合し順位を決定する。
王者は、「キング・オブ・アストリート」と呼ばれ、
世界中の陸上競技以外のアスリートからも称賛、尊敬を集める。
走る。投げる。跳ぶ。そのすべてで一流の身体能力を持つことを意味するからだ。


女子七種競技のチャンピオンも同じように「クイーン・オブ・アスリート」と称される。


近代五種」にしても「十種競技」にしても、
日本では極端に認知度が低いし、人気もないし、競技人口も少ない。
特にヨーロッパでは、何でもできる人を、
「キング・オブ・スポーツ」「キング・オブ・アストリート」などと尊敬するのに、
日本では、競技内容はおろか、その競技名すら知らない人が多いのではないか。
これは、「この道ひとすじ」文化を尊び、「何でもできる」人を“器用貧乏”などと蔑んできた日本人ならではのことのように感じる。

私は、「一芸に秀でた人」よりも、「何でもできる人」を評価し、尊敬している。
このことは、このブログで何度も言ってきた。
12年前(2008年3月23日)に書いた、
松下奈緒の主演映画『チェスト!』のレビューでは、次のように記している。


松下奈緒は、私が好きな女優のひとりだ。
松下奈緒の肩書きは多い。
女優、モデル、ピアニスト、作曲家、歌手……
私は、彼女のように、何でもできる人が好きだ。
日本はおかしな国で、「この道一筋」の人が尊ばれる。
何十年も同じことをしている職人さんのような人たちが尊敬される。
無形文化財人間国宝などは皆、この「一筋」の人たちから選ばれる。
反対に、何でもできる人たちは、「器用貧乏」などと呼ばれ、「一筋」派より劣った評価がなされる。
何にでも手を出す人、浮気性の人と思うのだろうか?
本当におかしなことだ。
私は、何でもできる人が好きで、「一筋」の人は苦手だ。
この道一筋……などと言っても、
「ど~せ、それしかできなかったんだろう!」とか、
「何十年も同じことやってるんだから、できなきゃウソだろ!」
などと、ひねくれ者の私は思ってしまう。
逆に、何でもできる人、いろんなことができる人には、羨望の、いや尊敬の眼差しを向ける。
本当に難しいのは、何でもできるということだと思う。
(全文はコチラから)


その後も、私は事あるごとに同じ趣旨のことを繰り返しこのブログに書いてきた。
その中でも、
映画『サバイバルファミリー』のレビューのときには、
……電気のなくなった世界で生き残るには……
とのサブタイトルで、少々力を込めて書いている。


私は、常々、このブログでも言っている通り、
「一芸に秀でた人」よりも、「何でもできる人」を評価し、尊敬している。
日本では、「一芸に秀でた人」のみを評価し、勲章を与える。
そんな人は、余計な事は考えず、従順で、国の為になるからだ。
一方、「何でもできる人」は、国をそれほど必要としない。
自分で家を建て、自分で食料を作り、自分で衣服まで作れる人は、
誰に頼らずとも生きていける。
働いて「お金」を得なくても、生きていけるのだ。
だが、「お金」を必要としない人は、
「お金」がないのだから、税金も払わない。
「何でもできる人」が増えることは、
国にとっては死活問題なのだ。
はっきり言えば、
「何でもできる人」は増えて欲しくないのだ。
「何でもできる人」がいない方が、国は国民をコントロールしやすいのだ。
事実、今の日本は、「何でもできる人」が極端に少ない国になっている。
そんな日本で起こった、原因不明の電気消滅。
何でも自分でしなければならなくなった人々の滑稽さは、
可笑しくも哀しい。
映画『サバイバルファミリー』では、
これだけ国民が困っているのに、国が何かしてくれているようには見えない。(笑)
警察や自衛隊が少しだけ出てくるが、国は知らんぷりなのだ。
「自分のことは、自分でしろよ」とでも言っているかのよう。(爆)
実際そうなったならば、そうなのかもしれないが、(核爆)
これも、矢口史靖監督の「わざと」であるのだろう。
国の助けなしで「自分で生き延びよ」ということなのであろう。



電気消滅によって、交通機関や、電話、ガス、水道まで完全にストップし、
都会は廃墟寸前となるが、
自給自足できる農村や漁村は、(映画でも)それほどの変化はない。
あらゆるものが使えなくなり、大混乱をきたす都会と違って、
自然の恵みがあるからだ。
だから、鈴木家だけでなく、人々は田舎を目指して移動する。


現代社会は、田舎が過疎化して、人口は都会に集中している。
電気が無くなることで、逆転現象が起きるのだ。
逆転現象を起こさせることで、
矢口史靖監督は、見る者に、何が一番大切なのかを解らせてくれる。


東日本大震災や熊本大地震の時に日本人が決意した事も、
月日の経過と共に、忘れ去られている。
「喉元過ぎれば……何とやら」で、
日本人の意識は、元に戻りつつある。
そんな時に公開された『サバイバルファミリー』は、
我々にとって何が真に幸福なのかを思い出させてくれる作品となっているのだ。
(全文はコチラから)

このレビューを読み返しているうちに、
新型コロナウイルスによって感染列島となった日本の現状を、(我ながら)言い当てていたのではないかと思った。
何も手を打たない国、
国がどうにかしてくれるだろうと思っている国民、
この(お互いが何もできないという極端な)関係性がこの映画では描かれており、
コロナ禍にある日本の現状と重なる部分が多い。

マスクが少なくなってくると、買い占める人が出てきて、
店の売場からマスクが無くなる。
マスクを求めて、いくつもの店を回るが、
まったくマスクが手に入らなくなり、
ネットなどで高値でマスクが売り買いされるようになる。
そんな中、「何でもできる人」の中から、
「マスクなんて自分で作ればイイやん」
と言う人が出てきて、ネットで“マスクの作り方”が拡散されていく。
素材も、キッチンペーパーなどから始まり、
高素材の布マスクへと行き着く。
誰もが布マスクを作り始め、普及すると、
むしろ布マスクの快適性が評価され、紙マスクの需要が減ってくる。
すると、店にも様々な種類のマスクが並ぶようになり、
今ではどのマスクも普通に売られている。
このマスク問題が解決した頃に、
何百億円もかけたアベノマスクが届いたが、(まだ届かない地域もあるようだが……)
このマスク騒動が象徴的な出来事だったと今になって思う。

都会と田舎の関係性も、映画『サバイバルファミリー』は予見していた。

電気消滅によって、交通機関や、電話、ガス、水道まで完全にストップし、
都会は廃墟寸前となるが、
自給自足できる農村や漁村は、(映画でも)それほどの変化はない。
あらゆるものが使えなくなり、大混乱をきたす都会と違って、
自然の恵みがあるからだ。
だから、鈴木家だけでなく、人々は田舎を目指して移動する。


と、私は書いたが、
新型コロナウイルスに襲われた今の日本でも、同じことが言えるのではないか。
感染者は都会に集中し、
田舎での感染者は少ない。
人が密に暮らしてはいない田舎では、むしろ、
新型コロナウイルスよりも、普通のインフルエンザの方が感染者数も多いし、死亡者も多い。

人口82万人の佐賀県は、
新型コロナウイルスの感染者は、45人で、死亡者は0人。
人口510万人の福岡県は、佐賀県の約6倍の人口だが、
新型コロナウイルスの感染者数は、佐賀県の約18倍の805人で、死亡者数は31人。
人口1372万人の東京都は、佐賀県の約17倍の人口だが、
新型コロナウイルスの感染者数は、佐賀県の約121倍の5426人で、死亡者数が311人。
(感染者数、死亡者数は、いずれも2020年6月11日現在の数字)
パンデミックにおいて、いかに都会の方が危ういか、数字が如実に物語っている。

食料不安のある都会では、
一時的にインスタントラーメンなどの保存食が店の陳列棚から消えたりしたが、
田舎では(ニュースを見て買いに走った慌て者はいたが)そんなこともなかった。
田舎は都会よりも食料の自給率が高いし、食料に対する不安も少ない。

田舎に住む者の中でも、
自給自足に近い形の生活をしている人は、
今回の新型コロナウイルスの影響はほとんどなかったと思われる。
人里離れた場所に暮らし、人と接する機会も少なく、
自給自足なので食料不安もない。
私がストレスなく生活できていたのも、
(自給自足ではないが)田舎に暮らし、
「衣」「食」「住」に不安のない生活ができていたからだ。



(いつものように)前置きが長くなった。(笑)
レビューを始めよう。

今回紹介する映画は、
『ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方』。
2020年3月14日に公開された作品であるが、
公開が数ヶ月遅れる佐賀ではシアター・シエマで6月5日から上映が始まった。
タイトルが長い(タイトルで内容を説明している)映画に「傑作」は少ないのだが、
本作『ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方』はどうか?
興味津々で映画館に駆けつけたのだった。



料理家である妻のモリーのモットーは、
「食の質は農作物にある」
ということ。
そのためには、
いつか自分の農場を持ち、
滋養のある野菜や果物を栽培し、
新鮮な卵を生む鶏を飼ったりすることが必須だと思っていた。


偶然にも、そのチャンスをもたらしてくれたのは、愛犬のトッドだった。
彼の泣き声が原因で、大都会ロサンゼルスのアパートを追い出されたのだ。


これが良い機会だと捉えたモリーとジョン夫妻は、
郊外へ引っ越し、農場を始めることを決意する。


ふたりが購入したのは、
200エーカー(東京ドームの約17個分に相当)の荒れ果てた農地。
土地を耕し、土壌を作り直し、有機的に作物を育てようというふたりに、
さまざまな困難が降りかかる。
農作物を食いつくす害虫、果実をついばむ鳥、鶏を襲うコヨーテ、干魃、水害、山火事……


自然の厳しさに直面しながらも、
命の誕生と終わりを身をもって学び、
動物や植物たちとともに、
アプリコット・レーン・ファーム”と名付けた農場を、
美しく、健全に育てていこうと奮闘する……



自然を愛する夫婦が、
究極のオーガニック農場を作り上げるまでの8年間を追ったドキュメンタリーで、
映画製作者、テレビ番組の監督として25年の経歴を持つジョン・チェスターが、
自身と妻、そして愛犬の姿をカメラに収めている。
それにしても、8年間の間に、なんと多くの困難がふたりを襲うことか……


ひとつひとつのエピソードが、
それぞれ1時間のドキュメンタリーにできそうな内容の濃さで、
そのエピソードのどれもが驚きに満ちている。
8年間の出来事が、(たったの)91分に収められているので、
一瞬たりとも目が離せない。


いくつもの困難に、これだけ襲われれば、大抵の人間は途中でくじけてしまうものだが、
このふたりはまったくくじけないし、ひるまない。
なぜなら、ふたりは、チャレンジ精神が旺盛で、生き抜く能力が高いからだ。
ひとつのことしかできない人間ではなく、何でもできる人間だからだ。
最初から何でもできる人間だったワケではない。
分らないところは専門家に訊き、アドバイスを受ける。
ふたりだけでできないことは、人の助けを借りる。
そして、信じたことは、とことんやり抜く。
そして、どんどん“何でもできる人間”になっていく。


ふたりが受ける困難の原因の多くは、
ふたりが取り組む「有機農法」にあった。
農薬を使わないことで、作物が害虫に襲われる。


その都度、
伝統農法のコンサルタントであるアラン・ヨークの教えを仰ぎ、
その教えを信じ、困難を耐え抜く。
除草剤を使わないことで、土壌の劣化を防ぎ、
雑草を生やすことで、土壌が大気から炭素を取り込み、養分を生み出して微生物を育む。
自然の理にかなった循環システムができ上っていく。




この様子は、
絶対に不可能と言われた無農薬リンゴの栽培に成功した木村秋則さんの「奇跡のりんご」を思い出させる。


映画化もされて、私はレビューも書いているのだが、(コチラを参照)


「奇跡のりんご」を何倍にもスケールアップしたものが、
『ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方』であるような気がした。




モリーとジョン夫妻がポリシーとする「野菜や果物、家畜、野生動物たちとの共生」も、
ふたりに困難を招く。
家畜同志に争いが生じたり、
家畜が野生動物に襲われたりする。
その都度、あらゆるものとの“共生”を模索し、
「自然との共存の法則」を学んでいく。
大きな母豚エマの小屋に、仲間にいじめられた鶏が闖入し、
最初は迷惑そうだったエマも諦めて同居する……
鶏を襲ってくるコヨーテも、果樹園の栄養を奪うホリネズミが好物で食べてくれて、
さらにそのフンが土壌に栄養を入れてくれる……
そのようなエピソードなどが紹介され、感動させられる。


どうにもならないものに、自然災害がある。
干魃や、集中豪雨による水害なども、
ふたりを苦しめ、試練にさらす。
だが、映画の最後に、
ふたりからのメッセージが出る。

「自然とは完璧なものである」

これだけ苦しめられても、
「自然とは完璧なものである」と言い切る謙虚さがふたりにはある。


自然界というのは私たちのGDPには追い付かないんですね。ですが、自然の中にある無限のエネルギーに触れるチャンスを得るためには人間が謙虚に追及し続けなければいけない。その自然の偉大な力と強調するやり方を私たちが謙虚に探すことを要求する。人間が謙虚にどうやったら共生するかを、そのやり方を考えれば自然の限りないエネルギーに触れるチャンスが与えられるのです。(「映画ログプラス」インタビューより)

とは、モリーの夫で、本作監督であるジョン・チェスターの言葉。


映画『奇跡のリンゴ』のレビューで、私も同じような意味の言葉を書いている。

徒歩日本縦断の旅から帰った私は、
山登りをするようになり、
好んで自然に身をひたすようになった。
なぜ好んで自然の中に入って行くかというと、
自然の中にいることが心地よいからである。
なぜ心地よいかというと、
それは、ゲーテの次の言葉に要約されているように感じる。


なぜ私は結局最も好んで自然と交わるかというに、
自然は常に正しく、誤りは専ら私のほうにあるからである。

正しいものの中にいるからこそ、心地よいのだ。
なにかあっても、間違っているのは自分の方。
答えがはっきりしている。
自然の声に耳をかたむければ、
おのずから答えは得られる。

本作『ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方』を見ると、
人間も自然界の一部であり、
数ある動物の一種であるということ、
なればこそ、自然界のサイクルの中で、
自然の理にかなった循環システムを作って生活していかなければならないということが解る。


コロナの時代の今だからこそ、見ておかなければならない作品のような気がする。
映画館で、ぜひぜひ。



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