
2016年に第13回本屋大賞を受賞した、
宮下奈都の小説『羊と鋼の森』を映画化したものである。
この『羊と鋼の森』のブックレビューを、
私は、ちょうど2年前の2016年06月22日に書いている。
この小説に対する私の感想は、
正直、あまり良いものではなかった。
少し引用してみる。
ピアノの調律に魅せられた一人の青年の話で、
彼が調律師として、人として成長する姿を、
透明感のある文体で綴った小説であった。
『羊と鋼の森』は、こんな文章で始まる。
森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森、風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで感じたのに、僕は高校の体育館の隅に立っていた。放課後の、ひとけのない体育館に、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。
いきなり、ピアノを森に喩える言葉が並び、
なんだか純文学的な書き出しだったので、ちょっと身構えたが、
このような文章が所々に挟まるものの、
全体の文章は平明で、読みやすく、
240頁ほどの小説は、短時間で読み終えることができた。
小説のタイトル『羊と鋼の森』も、
羊:ピアノの弦を叩くハンマーに付いている羊毛を圧縮したフェルト
鋼:ピアノの弦
森:ピアノの材質の木材
であることも判り、
ピアノ、およびピアノの音を、「森」に形象することで、
言葉にしにくい感覚的なものを、読む者にスッと解らせる。
未来に不安を抱く悩み多き若者には、共感される作品だと思った。
で、未来のない悩み無きジジイ(笑)の私の読後感はいうと、
これが困ったことに、「薄い」のだ。
最後まで読み通せたし、
読後感も悪くなかったが、
「それだけ」だった。
「濃いィ~」人生を歩んできた私には、(爆)
なんだか、薄めのスープを飲まされたようにしか感じなかった。
小説に現実味を感じられず、
ファンタジー小説を読まされたような気分になったのだ。
(私はファンタジー小説をあまり好まない)
それは何故なのか?
理由をいくつか挙げてみる。
この物語の時代背景が分らない。
年号はおろか、時代を推測できるような事項は一切書かれていないので、
いつの頃の物語なのかが分らない。
街の描写や、車の車種や、時代が判るような商品名などがまったく表記されていないので、
なんだか夢物語のような印象を受ける。
この物語の場所の印象が希薄。
「生まれて初めて道を出た」という記述があるので、
一応、舞台は北海道ということは判るが、
北海道らしい風景描写や方言等もなく、
舞台となる「場所」にまったくリアリティがない。
人物描写が平板。
登場人物は、ほとんどピアノおよびピアノの音についてしか話さず、
その他のことにはまったく興味がないみたいだ。
多少の葛藤は記述されているものの、
人間としての、様々なものに対する欲望みたいなものが消去されている。
これらのことは、
作者が意図的にやったことなのかどうかは分らないが(たぶんそうだと思うが……)、
これほど「時代」や「場所」や「人物」についての情報がないと、
「ファンタジー小説」、あるいは「大人のための童話」にしか思えなくなってしまう。
たとえば、
いくら比喩にしても、
「森の匂い」という言葉に、まったく「匂い」が感じられない。
「森の匂い」は、
「土の匂い」「樹木の匂い」「草の匂い」「獣の匂い」などの他に、
季節、温度、湿度、風などが複雑に絡み合い、
その森の匂いを創り出す。
場所が違えば、「森の匂い」も違う。
一様ではないのだ。
長年、山歩きをしたり、森で寝たことのある者ならば、
それは誰しも解ること。
作者は、「森の匂い」という言葉ひとつにしても、
安易に使い過ぎているような気がした。
それは、実体験の無さからきているものなのか……
想像力だけではカバーしきれていないように感じた。
ただ、この手の小説が、若者にウケること、
このような小説が、若者に好まれるであろうことも解る。
が、ジジイの私には、やや物足りなかった。
小説に関しては、残念ながら物足りなさを感じてしまったが、
映画化に関しては、希望的な感想を記している。
本屋大賞受賞作ということで、
いつかは映画化されるだろう。
映画になれば、
原作である小説に「時代」や「場所」や「人物」についての情報がなかったとしても、
映像としてそれを鑑賞者に見せなければならない。
小説にはなかった、それら映像化された情報が、
血となり肉となって、
小説とはまったく違った芸術作品として生まれ変わるかもしれない。
情報がないことで、かえって優れた映画になる可能性もある。
傑作映画として登場するかもしれない。
映画『羊と鋼の森』が公開される日を待ちたいと思う。
その映画『羊と鋼の森』が6月8日に公開された。
気になっていた作品だったので、
公開初日の夕刻、仕事帰りに映画館に駆けつけたのだった。

将来の夢を持っていなかった主人公・外村(山﨑賢人)は、
高校で、ピアノ調律師・板鳥(三浦友和)に出会う。

彼が調律したその音に、
生まれ故郷と同じ森の匂いを感じた外村は、
調律の世界に魅せられ、
果てしなく深く遠い森のようなその世界に、足を踏み入れる。

ときに迷いながらも、
先輩調律師・柳(鈴木亮平)や、

ピアノに関わる多くの人に支えられ、
磨かれて、外村は調律師として、人として、逞しく成長していく。
そして、
ピアニストの姉妹、和音(上白石萌音)と、由仁(上白石萌歌)との出会いが、

“才能”に悩む外村の人生を変えることになるのだった……

橋本光二郎監督は、
良い意味でも悪い意味でも、
原作のイメージを壊すことなく、
原作にきわめて忠実に、丁寧に丁寧に撮っていた。
愚直なまでに真っ直ぐに……

北海道の風景が、とにかく美しい。
美しい風景以外は採用しないと宣言しているかのように……
特に、冬の風景には魅せられた。
これほどの映像を文章で書き表すことは難しい。
原作には風景描写がほとんどなかったので、
これほどの風景を想像することはできなかった。
映像が持つ力を感じた。

これら、素晴らしい風景と共に、
そこに登場人物たちを加えたイメージ映像も多用されていた。
森の中の外村(山﨑賢人)、
水の中の和音(上白石萌音)など、
随所にイメージカットが挿入されていて、
それが、やや長い。


原作を読んでいる私でさえそう感じたので、
原作を読んでいない人には、
美しい北海道の風景と、登場人物のイメージカットが多用された、ヒーリング映像のように感じられたかもしれない。

では、原作を読んだときに感じた疑問点はどう処理されていたか?
まずは、“この物語の時代背景”。
原作には、年号はおろか、時代を推測できるような事項は一切書かれていないので、
いつの頃の物語なのかが分らなかったのだが、
映画ではさすがにそうはいかず、
いくつかのヒントで、時代設定は“今”であることが判った。
ずっと調律されていなかったピアノの最終調律が平成15年となっており、
「もう14年も調律されていなかったのか……」
という言葉があったので、
時代設定は、映画が撮影されていた平成29年とされていたようだ。
それと、外村(山﨑賢人)が乗っている車が、
(山崎賢人がCMにも出演している)ダイハツのキャストであったことも、
時代設定が“今”であることを裏付けていた。

次に、“この物語の場所の印象が希薄”という点についてはどうだったか?
原作には、「生まれて初めて道を出た」という記述があるので、
一応、舞台は北海道ということは判ったのだが、
北海道らしい風景描写や方言等もなく、
舞台となる「場所」にまったくリアリティがなかった。
映画では、
「これでもか」というほどに北海道の美しい風景が映し出されるので、
北海道ということは判る。

ただ、これが、あまりに現実離れした美し過ぎる風景ばかりなので、
どこか海外の風景のようでもあり、

北海道の方言もなく、
なんだかファンタジーの世界のようにも感じた。

では、“人物描写が平板”という点についてはどうだったか?
原作では、純粋培養されたような登場人物ばかりで、
俗世間に生きている人間には思えなかったのだが、
映画でもそれは同じだった。
基本的に善人しか登場せず、
それぞれの人物にあまり生活感がなく、浮世離れしていた。

私は、『羊と鋼の森』のブックレビューで、
映画になれば、
原作である小説に「時代」や「場所」や「人物」についての情報がなかったとしても、
映像としてそれを鑑賞者に見せなければならない。
小説にはなかった、それら映像化された情報が、
血となり肉となって、
小説とはまったく違った芸術作品として生まれ変わるかもしれない。
情報がないことで、かえって優れた映画になる可能性もある。
傑作映画として登場するかもしれない。
と書いた。
私の希望は、半分は叶えられ、半分は叶えられなかった。
私は、先程、
橋本光二郎監督は
良い意味でも悪い意味でも、
原作のイメージを壊すことなく、
原作にきわめて忠実に、丁寧に丁寧に撮っていた。
と、もってまわった言い方をしたが、
この「良い意味でも悪い意味でも」には、
〈よくぞ小説の世界を映像で表現した〉
という思いと、
〈もっと冒険しても良かったのでは……〉
という思いがあったからである。

……もっと書きたいことはあるが、出勤前なので、この辺で終わろうと思う。
エンドロールに流れる、久石譲が作曲し、辻井伸行が演奏する曲を聴きながら思ったのは、

〈愚直なまでに真っ直ぐに、丁寧に丁寧に撮られた作品だったな~〉
ということ。
随所で物足りなさは感じるものの、
これほどまでに、“愚直なまでに真っ直ぐな作品”は稀だ。
そういう意味で、見る価値のある作品だと思われる。
映画館で、ぜひぜひ。