
野生のきつねと少女の交流を、フランス・アルプス地方を舞台に描いた映画『きつねと私の12か月』を見に行った。
監督は、前作『皇帝ペンギン』でアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に輝いたリュック・ジャケ。
動物ドキュメンタリーの第一人者であるジャケ監督初の長篇フィクションだ。
この物語は、モンブランを臨む山岳地帯で育った監督自身の実体験がベースになっているという。
ロケ地に選ばれたのは、フランス南東部アン県のルトール高原と、イタリア・アブルッツォ地方。
映画のタイトル通り、撮影は一年を通して行われ、大自然の四季を、圧倒的な映像美で描き出している。

正直に白状すると、このアルプスの美しい四季をたっぷりと味わいたくて、私はこの作品を見に行ったのだ。
野生のきつねと少女の交流など、本当はどうでもよかった。
だが、さすがリュック・ジャケ監督、私のそんな思惑など蹴散らすほどの映像で、私を物語の中へ引きずり込んでしまった。
ただの映像美ではなかった。
当然のことながら、山にも、森にも、そこに生きている動物がいる。
きつねだけでなく、熊や山猫や狼などがイキイキと描き出されていた。


季節は秋。
フランスの山深い村に住む少女、リラは学校帰りに1匹のきつねに出会う。

柔らかそうなとび色の毛に覆われた姿、つぶらな瞳に魅せられたリラは、一目で恋におちる。
きつねにテトゥと名付けた彼女は、警戒心が強く、滅多に人前に現れないテトゥに会うために毎日森に通う。
厳しい冬が過ぎ、

生命が芽生える春がやって来た時、リラはきつねと再会する。

冬の間にリラのきつねは母親になっていた。
なんとかして近付こうと模索するリラ。
努力の甲斐あって、きつねはリラに心を開いてくれるように。
しかし、友達になりたいあまり、リラは大きな間違いをしてしまう…。
(ストーリーはパンフレットとgoo映画より引用して構成)
映画の最後まで、動物の他の登場人物は少女だけ。

ジャケ監督は、某インタビューでこう語っている。
「本作では童話のように本質的なものを伝えたいと思ったので、余計なものは登場人物以外でも出来るだけ削除しました。それに自然の中での人間の位置づけは、とてもちっぽけな存在だと私は考えています。ですので“広大な大地”をイメージして登場人物を少なくしたのもあります」
この演出が功を奏し、シンプルで心に染みる作品になっている。
だが、登場人物は少女だけではなかった。
最後の最後に……いや、これ以上は語るまい。
この、最後の最後に、実に示唆に富んだ言葉が出てくる。
それをここで書くのは野暮というものであろう。
実際に映画を見て確かめて頂きたい。
自然の中に身を置くと、誰しも心地よさを味わう。
リラックスし、癒される。
それはなぜだろう?
……美しい風景。
……美味しい空気。
……土や木の感触。
……花や森の匂い。
……鳥のさえずりや川のせせらぎ。

理由を挙げれば限りなくあるが、多くは感覚的なものだ。
五感に感じる幸福感を味わいながらも、もっと理論的にそのことを表現してくれる言葉はないものか……と思っていたとき、最近次の言葉と邂逅した。
「なぜ私は結局最も好んで自然と交わるかというに、自然は常に正しく、誤りは専ら私のほうにあるからである」ゲーテ
世の中は、何が正しくて、何が間違っているのか、判断が難しい。
絶対的な「正」は見当たらない。
確信を持って「正しい」と言えるものは無いに等しい。
そういう世の中にいると、心が落ち着かない。
「自然は常に正しい」
だから自然の中にいると居心地が良いのだ。
自然の中にもし間違ったものがあるとすれば、その多くは人間の仕業であろう。
この映画を見ている間、私は自然の中にいる自分を感じた。
森の匂いを嗅ぎ、高原の風を頬に受けた。

山に行かない日は、こういう映画を見て過ごしたい。