東日本大震災から15年。
いまだに2万6,281人が避難生活を送っている。政府は「自立への移行」を唱えて支援打ち切りや縮小を進める。例えば、福島県大熊町や双葉町からの避難者に延長されてきた応急仮設住宅の無償提供が今月末で終了となる。
また、災害公営住宅などで暮らす人の見守りやコミュニティづくりの国の補助金も今月末で終了となる。
さらに、このまま、風化、忘却が進んでいくことに抗わなければと思う。
録画したままだった、NHKの『知的探求フロンティア』で「巨大噴火が“日本人”を生んだ!?」(1月10日OA)をようやく観た。
「日本人らしさ」がテーマで、番組案内には「今、世界から大注目!礼儀正しい、勤勉など『日本人らしさ』はなぜ生まれたのか?鍵は、巨大災害だった!?」とある。
繰り返された巨大地震や津波が、「日本人らしさ」を形作っているというもの。日本人にしかない遺伝子レベルの特徴なども提示して、最後は「すごいぞ、日本人!」で終わった。
マグニチュード7以上の大地震の2割が日本周辺で起きる、世界でも超「変動帯」に我々が住んでいるのはたしかだが、そこから「日本人らしさ」という気質論にジャンプするのは、途中の多層の媒介項(自然➡食糧➡経済➡コミュニティ➡・・・政治にいたる)を無視して推論に推論を重ねることになり、結論は的外れになる。
そもそも最初に上げたAIによる「日本人らしさ」が“眉唾”である。ここには「控えめ」、「勤勉」などと並んで「時間に正確」などが並んでいて、思わず笑ってしまった。

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社)は、幕末から明治の初めに、開国した日本にやってきた欧米人が記した日本の印象をまとめた名著だが、そこには「社会全体にみなぎる悠長さ」が描かれている。日本人ほど時間にいいかげんな民族はない、と彼らは驚愕したのである。
長崎海軍伝習所の教育隊長、カッティンディーケは、幕吏との交渉の際の苦痛を訴える。
「日本人は交渉が始まろうというのに、いつまでも座り込んで、喫煙したり、あたりを眺めたり、あたかも気晴らしにでも出かけているつもりらしい。そしてこういう場合なのに、お茶を飲んだり菓子をたべるといった暢気さである」(P242)
そして、平民たちは「時間の価値など全く念頭になかった。。商取引きの場合でさえ、ヨーロッパ商人の最大の当惑は、時間どおりに契約を実行させるのが難しいことであった。いや、不可能だったといった方がよいかもしれない」(ジョン・ブラック)
欧米人を見つけると、人々は仕事をほっぽり出して取り囲み、相手が理解できないのにお構いなしに日本語で話しかけ、なれなれしく彼らの体や服を触るのだった。こうなると「控えめ」とか「勤勉」という“日本人らしさ”もあやしくなってくる。(笑)
ただ、欧米人たちは、そんな日本人たちを愛し、日本を「桃源郷」と表現したものまでいたのである。産業革命を経て、不潔で惨めな欧州の労働者と異なり、日本では労働が苦役ではなく楽しみであり、社会は幸福感に溢れていたのである。彼らは欧米で失われた「古き良きもの」を日本に見出したのだった。
NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の小泉八雲も、日本を単に“奇異な国”と見たのではなく「近代社会が忘れ去った、人間として最も大切な精神的価値を持ち続けている最後の砦」と評価していた。
渡辺京二によれば、明治維新以降、その固有の文明が失われ、日本人の心性も大きく変わった。
急速に変わりゆく日本と日本人の“こころ”を観察しながら、小泉八雲は「外見だけ西洋化しても、内面の日本精神を失えば、日本は日本でなくなる」と警鐘を鳴らし、「西洋の複雑な欲望に染まることは、精神の自由を失うことだ」と懸念していた。
明治期の強力な近代化で、学校、工場、軍隊に行くことが義務付けられ、そこで時間を守り、無駄口を叩かずに規律正しく行動することを訓練によって叩き込まれた。それが今の私たちを作ったのである。当時の日本精神はとうに失われたと言ってよい。
こうして「日本人らしさ」とか「国民性」といったものは、その基底にある文明のありようによって数十年単位で大きく変化するのである。縄文時代の大地震にすべてを帰すことがいかに荒唐無稽かわかるだろう。
純粋な“日本人らしさ”を縄文時代まで遡って探そうとすること自体が、我が国のまさに現代的現象なのだが、それについてはいずれ書こう。
ただ、この番組で興味深かったことがある。宮城県にある前方後円墳の位置関係だった。岩沼市の「かめ塚古墳」、その北の「雷神山古墳」、さらに北の「遠見塚古墳」が、弥生時代に起きた大津波の浸水線(そこまで波が来た限界)に位置しているというのだ。
つまり、前方後円墳を津波のランドマークとして後世に残したという推測が可能になるというのだ。





これは、東日本大震災のあとの私たちの神社の取材を思い出させた。
津波の浸水線を辿っていくと、不思議にも、次々に神社が現れたのである。浸水線上にたくさんの神社が見事に並んでいるのだった。
(つづく)