ベトナム戦争は多大な犠牲のうえにアメリカを追い出したのだが、一方で多くの英雄を産んだ。それもごく普通の農民のなかから、高い志をもって抵抗を続けた人たちを輩出した。
侵略への抵抗は、侵略者との精神の闘いでもある。今のウクライナもそう。侵略者とDefenderは、倫理の面でも「どっちもどっち」ではない。

ジャーナリストの伊藤千尋さんが、ベトナムのドイモイを提唱した人物について紹介している。https://www.facebook.com/chihiro.ito.1069
「ドイモイ」とは、ベトナム版ペレストロイカで、ソ連と違ってベトナムは体制崩壊はせずに、戦後の経済苦境を乗り切った。
ベトナムは今も事実上の共産党一党独裁なのだが、そして、言論の自由はかなり制限されているのもたしかだが、この記事に救われる気がする。なにより、こんな生き方をした人がベトナムにいたことに深い感慨を覚える。

長く続いたベトナム戦争がようやく終わったのが1975年4月30日でした。あれから50年、半世紀になります。取材した多くのベトナム人を思い出しますが、中でもグエン・スアン・オアインさんは異色です。終戦当時は南ベトナム政府の副首相でした。戦争で敗れた政権の要人です。
彼に興味を持ったのは戦後、統一ベトナムの社会主義経済が危うくなり、ドイモイ政策で救われた1989年です。この政策を立案したのがオアインさんでした。香港で発行していた英文の経済誌の記事を読んで知って、ベトナム取材のさいに会いに行ったのです。ドイモイよりも知りたかったことがあります。なぜ南ベトナム政府の中枢にいた人が戦後も社会主義の政治に関わっているのか。それ以前に終戦当時、南ベトナムの政治家たちは争って米国に逃亡したはずです。彼はなぜ逃げなかったのか?
会ったとき彼は国会議員でした。僕が英語で自己紹介すると、思いがけない言葉が帰って来ました。「あんたはん、よう来なはりましたなあ」。綺麗な京都弁です。驚きました。戦前に日本に留学し第3高等学校、京都大学と9年間も学んだと言います。さらに米国のハーバード大学で博士号をとったのです。
さっそく質問しました。「終戦のさい、南ベトナム政府の政治家たちは解放軍に捕まって処刑されると考え、米軍機や駆逐艦で米国に逃げたと聞きます。あなたはなぜ逃げなかったのですか?」
オアインさんは深く息をついて答えました。「あのとき米国政府は私にハーバード大学教授の地位と日本円で100万円以上の月給を保証すると言って米国行きを誘いました。しかし、私がなぜ日本や米国に留学してまで経済を勉強したか。それは貧しいベトナムを豊かにしたいと思ったからです。その私が国を離れて、どうします?何があってもとどまらなければならない。革命政府から見れば私は敵です。銃殺されるなら、あきらめるしかない。でも生きてさえいれば、私が学んだ専門知識は社会主義であろうと資本主義であろうと、必ず祖国の役に立つと信じていました」
あえて残ったオアインさんも偉かったが、新生ベトナム政府も偉かった。彼を自宅に軟禁状態にするだけで処刑どころか投獄すらしませんでした。歳月が過ぎてソ連型の社会主義経済がうまくいかないと見るや、オアインさんはかねて考えていた経済政策を政府に提案したのです。そのドイモイ政策がベトナム経済を救い、今日の繫栄があるのです。
ドイモイ政策について詳しく聞いたあと、事務所を去るさい、オアインさんはつぶやきました。「これまで誰にも言ったことはないけれど、理想に生きぬいてきたことだけは自分に自慢できます」
彼は2003年に亡くなりました。でも、別れ際の彼の凛とした目を、今もよく覚えています。人々のため社会のために人生を誠実に生きる見本のような人でした。