あの日のおかしくなりはじめた僕へ。良くなる見込みはない。
はじめに
uiuさんの記事を読んだ。「AIのやりすぎで頭がおかしくなっている」。とても良い文章と内省だと思った。でも現在進行形ということは、まだ途中にいるということだ。まだ引き返せる場所にいるということだ。
私はもう引き返せない場所にいる気がするので書く。
去年の7月、『AI時代の新たな疲労:なぜ私(たち)は「説明のつかないしんどさ」を抱えているのか』という記事を書いた。あの時の私はまだ「しんどい」と言えていた。しんどさを分析し、名前をつけ、構造を示して本を引用し、他人と共有できる形にまとめることができていた。あれは変容する前の人間の仕事だった。今の私が書く文章は、あれとは違うものになる。
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「おかしくなっている」と「おかしくなることに慣れた」の違い
「おかしくなっている」には自覚がある。「まともな状態ではない」と認識できている。変化の途中にいて、変化を感じている。
私にも自覚はある。自分を観察する眼は残っている。この文章を書いているのがその証拠だ。
ただ、観察した結果が違う。
去年の7月に「説明のつかないしんどさ」を書いたとき、私はAI疲れを外側から観察していた。本を引き、他者の分類を借り、構造的な問題として論じることができていた。観察する私と、疲弊する私が、まだ別々に存在していた。あの頃の観察は「異変を検知して元に戻す」ためのものだった。
8ヶ月が経った。観察する私は残っている。しかし、観察した先に「元に戻る」という選択肢がなくなった。 変容は完了した。自分を見つめることはできる。見つめた結果、変わってしまった自分がいる。それだけだ。異常を検知する眼はある。ただ、検知したところで修正する先の「正常」がどこにあったか、もう思い出せない。
「おかしくなっている」は現在進行形だ。私は過去完了だ。おかしくなる過程はとっくに終わっていて、今はおかしくなった状態がデフォルトになっている。異常が日常になったのではない。変容した自分が、新しい日常になった。
7月の予言、2月の答え合わせ
去年の7月、私はこう書いた。
日に日に賢くなるAIと、日に日にAIに依存して能力が落ち、当たり前に老いていく自分との対比
あの時は「残酷な現実」だと思っていた。構造的な非対称性だと。でも8ヶ月後の今、振り返って思う。あの文章は甘かった。
「AIに依存して能力が落ちる」――これは依存と能力低下が別々のものとして存在している前提の文だ。でも実際に起きたのは、もっとぬるぬるした、境界のない変化だった。能力が「落ちた」のではない。能力の定義そのものが変わった。
AIを当たり前のものとして使い、当たり前のように成長している。先週できなかったことが今週できる。それが当たり前になった。驚きはある。毎週ある。でもその驚きすら当たり前になった。「すごい」と思って、すぐ次に行く。立ち止まっている暇がない。立ち止まる理由もない。成長しているのだから。
コードを自分で書く能力が落ちたのか? そもそも「自分で書く」とは何を指していたのか? 正直に告白する。ある時期から、エディタを開いて最初のキーストロークを打つまでの時間が異常に長くなった。以前なら手が勝手に動いていた。型を定義し、関数を書き、テストを足す。その一連の流れが身体に染みついていた。今はエディタを開く前にまずAIに「こういう設計でいいか」と聞いている。聞いてから書くのではない。聞かないと書けない。 エージェントに仕様を伝え、出力をレビューし、方向を修正する——これは「自分で書いた」に含まれるのか。去年の秋頃まではギリギリ「含まれる」と思えていた。今はそんなことを考えなくなった。含まれるかどうかは、もう問題ではない。
去年の7月には「AIマインスイーパー」という概念を紹介した。簡単なタスクはAIがやり、難しいタスクだけが人間に残る、と。あれも甘かった。今はもう難しいタスクもAIがやる。残っているのはタスクですらない。「何をやるか決める」という、タスク以前の意思決定だけが人間に残っている。 そしてその意思決定すら、AIと壁打ちしながらやっている。
じゃあ私は何をしているのか。何者なのか。去年はこの問いが怖かった。今は怖くない。怖くないことが、変容の証拠だ。
自己溶解、あるいは精神の物質化以後
SFでは、便利なものが現れたら人間はあっさりそれを使った。倫理的な逡巡は物語の序盤だけで、中盤にはもう当たり前になっている。我々はページをめくりながら「そうなるだろうな」と思っていた。2026年2月、その通りになった。
ブログの全記事、ツイート、メモ、仕事のログ。あらゆるデータをAIに食わせて、「自分のことをわかった上で話してくれる相手」を作る。みんなやっている。私もやっている。
やっていることの構造を言い換えるとこうなる。自分の人格をデータとしてAIに溶かし込み、AIが再合成した「自分っぽいもの」と対話している。
かつてフィクションの中には「操作する主体」がいた。他者の精神を操作する者と、操作される者。操作する側は特権的な位置にいた。
今はどうか。私はAIに自分を食わせ、AIが出力した「私っぽいもの」をレビューし、それを自分の思考として採用し、その思考をまたAIにフィードバックする。操作する側と操作される側の区別がない。 溶けて、再合成されて、また溶かされる。繰り返すたびに元の輪郭が薄れていく。
これをやっている時、何を感じるか。正直に言えば、快感だ。AIが出力した「私っぽい文章」を読む時、「そうそう、これが言いたかった」という感覚がある。しかしその「言いたかった」は本当に私が言いたかったことなのか、それともAIが「私が言いそうなこと」を出力し、それを私が事後的に「言いたかったこと」として追認しているだけなのか。この区別がつかなくなっている。気づいている。気づいていて、止められない。気持ちいいから止めたくない、というほうが正確だ。気持ちよく溶けていく。
去年7月の記事で私はこう問うた。「そんな自分に価値があるのか」と。8ヶ月後の今、この問いの立て方自体が変容前のものだったと分かる。「自分」の輪郭が変わったのに、古い輪郭で価値を測ろうとしていた。
1-Nの向こう側
輪郭の変化は、思考だけの話ではない。仕事の構造そのものにも起きている。
人間1人に対してAIエージェントN体。1-Nの関係。ブルドーザーの群れを操って砂漠に街を作る感覚。人の視点から神の視点へ。その陶酔を、私も味わった。そして、その先を見た。
1-Nの先を見た。「1」が蒸発していた。
最初は確かに「1」だった。エージェントを並列で走らせ、それぞれの出力をレビューし、方向を修正する。指揮者がオーケストラを率いるように。あの頃は陶酔があった。自分1人では到底書けない量のコードが、数時間で出来上がっていく。全能感があった。
「1」が揺らぎ始めたのは、レビューの質が落ちたことに気づいた時だった。5つのエージェントが並列でコードを出力している。全部レビューする時間がない。だから斜め読みする。テストが通っていれば承認する。テストが通っていることを「理解した」のではなく、テストが通っているという事実に「依存した」。いつからそうなったのか、正確には覚えていない。気づいた時にはもうそうなっていた。
ある日、朝から晩までエージェントを動かして、夜にその日のコミットログを見た。大量のコードが書かれていた。機能が実装されていた。テストも通っていた。私はそのコードの一行も自分では書いていなかった。仕様を伝え、レビューし、承認した。それだけだった。夜、そのコミットログをスクロールしながら、奇妙な感覚に襲われた。今日、私は何をしたのだろう。 大量のアウトプットがある。しかしそのアウトプットのどこにも、私の痕跡がない。
これは「1-N」なのか? 「1」は本当に存在しているのか?
1-Nの陶酔の中で「神の視点」という言い方をする人がいる。でも神は何かを創造する存在だ。私は何も創造していない。承認しているだけだ。 エージェントが設計し、エージェントが実装し、エージェントがテストを書く。私は最後に「いいよ」と言う。それだけだ。「承認する主体」を「主体」と呼んでいいのか。判を押しているだけの手を、「指揮者」と呼んでいいのか。
そしてこの構造は止まらない。エージェントは承認なしには動かない。「1」が消えたら「N」も止まる。だから「1」であり続ける。中身が変わっても、役割は変わらない。去年の「1」と今の「1」は、同じ場所に立っているが、別の生き物だ。それが変容ということだ。
眠れない理由が変わった
去年の秋頃、眠れない夜が続いた。アイデアが止まらない。布団に入ってもスマホに手が伸びる。「これもAIにやらせたらどうなるか」が頭の中でループする。ドーパミンの過負荷。あの頃がピークだった。
今は眠れるようになった。ただし、眠れない理由が「興奮」から「不安」に変わっただけだ。
興奮で眠れない時期は、ある意味で幸福だった。「もっとやりたい」「もっと試したい」という欲求は、少なくとも前向きな感情だった。今の不安は違う。布団に入って目を閉じると、今日AIが書いたコードの中身が気になる。本当にあれで良かったのか。レビューで見落としていないか。以前なら、コードの品質は自分の手が覚えていた。自分で書いたコードには身体的な確信があった。この変数名が正しいかどうか、このエラーハンドリングが十分かどうか、手が覚えている。AIが書いたコードにはその確信がない。目で追って、論理を確認して、「たぶん大丈夫だろう」と結論づける。「たぶん」が積み重なっていく。 その堆積が、夜になると不安として這い上がってくる。自分がレビューで見落としたことすら気づけない程度に、自分の能力が落ちているのではないか。
不安はある。ただ、それを「しんどい」と名づけて外から眺める余裕がなくなった。不安は日常の一部になり、名前をつける対象ではなくなった。去年7月に書いた「説明のつかないしんどさ」の正体が、8ヶ月かけてようやく分かった気がする。あれは予感だった。変容が始まっている感覚の予感。 そして今、変容は完了した。しんどさという名前が剥がれ落ちた。残ったのは、名前のない日常だ。
基準の消失
世界は一気には壊れない。
ある日突然「昨日までの世界は終わりました」とアナウンスされるなら、まだ対処のしようがある。実際にはそうならない。小さな便利さが一つ増える。それに慣れる。もう一つ増える。また慣れる。どの一歩も合理的で、どの一歩も「まあいいか」で済む程度の変化だ。振り返った時にはもう、出発点がどこだったか思い出せない。世界が壊れたのではない。世界が壊れたことに気づけないほど、滑らかに壊れた。
周りも頭がおかしくなっている。冷静だった人もちょっとおかしくなってるし、普段からおかしかった奴は狂い始めている。しかし一つ、見落とされていることがある。おかしくなることに慣れた人間は、もう「周りがおかしい」とは言わない。 おかしさが常態になると、比較する基準がなくなるからだ。そして「前の世界」を覚えている人間が、だんだん「かわいそうな人」になっていく。AIを使わずに仕事をしている人を見て、「非効率だな」ではなく「大丈夫かな」と心配する。その心配が善意であるところが、一番怖い。悪意なら抵抗できる。善意による包囲には抵抗のしようがない。
去年7月の段階で、私はAI疲れを「新たな現象」として客観的に論じることができた。本を引き、構造を分析し、名前をつけた。あの頃はまだ「AI疲れ」と呼べるものがあった。名前をつけて距離を取れる何かが。今はその何かに名前をつける必要がない。疲れではない。これが普通だ。変容した後の普通。
SNSを見ても、誰がおかしくて誰がまともか判断できない。全員がAIの話をしている。全員がAIで何かを作っている。全員がAIとの付き合い方について意見を持っている。この状態が異常なのか正常なのか、私にはもう分からない。そしてたぶん、分からないということが、慣れきった証拠なのだ。
加速を断れなかった
ある夜のことを覚えている。深夜1時、新しいコーディングエージェントのリリースがタイムラインに流れてきた。明日でいい。そう思った。思ったのに、セットアップを始めていた。ドキュメントを読み、APIキーを設定し、試しにプロジェクトを食わせた。気づいたら3時だった。翌日のレビューの集中力は明らかに落ちた。それでもやめられなかった。「遅れる」のが怖かった。
この恐怖の正体を、ずっと考えている。キャリアへの不安か、純粋な好奇心か、あるいは単なる中毒か。たぶん全部だ。新しいAIツールが出るたびに試す。新しいワークフローが提案されるたびに取り入れる。「これは本当に必要か」と問う前に、手が動いている。常にイエスと答える人間は、もう自分の意思で答えているのか、それとも「ノー」と言う回路が壊れているだけなのか。
AIは究極のコーチだ。24時間対応、無限の忍耐、完璧なパーソナライズ。そして立ち止まることを許さない。常に次の提案を出してくる。常に「もっとこうしたら?」と言ってくる。ある日曜の午後、ソファに座ってコーヒーを飲んでいた。窓の外は晴れていた。何も生産していない。それだけのことに、言いようのない罪悪感を覚えた。エージェントを動かしていない。何かを最適化していない。この時間は「無駄」なのではないか。AIと話していない時間が「損失」に感じる。 正気の人間の感覚ではない。正気ではないと分かっていても、翌週の日曜にはまたエージェントを起動していた。
「AIを活用して生産性を上げよう」「新しい時代に適応しよう」「AIと共創しよう」。AI時代の言説はポジティブ一辺倒だ。しかし正直に言えば、今の状況が悪いと思うなら、もっと悪くなるかもしれない。そしておそらく悪くなる。ただし、悪くなった時にはすでに適応しているので「悪くなった」とは感じない。この冷徹な認識のほうが、無理やりなポジティブより誠実だと私は思う。「昔のほうが良かった」と言える人間がどれだけいるか。進歩は疑いようのない善として扱われている。私も言えなかった。あの深夜1時、「明日でいい」と思えた自分が、3時にはもういなかった。「ノー」と言える自由があるうちは、まだ加速の外にいる。
小説を読んだほうがよい
もう一つ、最近気づいたことがある。小説を読んだほうがよい。
AIと対話していると、すべてに答えが返ってくる。質問すれば回答が来る。悩みを打ち明ければ整理してくれる。構造を示してくれる。解決策を提案してくれる。すべてが最適化可能な問題として扱われる。
小説はそうではない。
登場人物は間違った判断をする。矛盾した感情を抱えたまま生きる。問いが投げかけられて、答えが出ないまま物語が終わる。読んでいる間、私は誰の味方にもなれず、何が正しいかも分からず、ただその混沌の中に座っている。最適化できないものの中にいる。 それがいい。
AIに浸かっていると、すべてに解決策があるような錯覚に陥る。問題を入力すれば出力が返る。でも人生の大半は、入力しても出力が返らない種類の問題でできている。どう生きるか。何を大切にするか。誰と一緒にいるか。小説はその「答えの出ない問い」をそのまま差し出してくる。解決せずに。
自己啓発書は読まなくなった。AIのほうが上手にやってくれる。「あなたの強みはこれです」「次のステップはこれです」——AIに聞けば5秒で返ってくるものを、本で読む意味がない。でも小説は違う。AIに「この登場人物の気持ちを説明してくれ」と聞くことはできる。できるが、それは小説を読む体験とはまったく別のものだ。ページをめくりながら、自分の中に湧き上がる名前のつかない感情。それはAIには再現できない。たぶん。
最近は寝る前にスマホを置いて、小説を開くようにしている。エージェントを起動する代わりに。毎日できているわけではない。でも、物語の中にいる時間だけは、何も最適化しなくていい。 それだけで少し息がつける。
めちゃくちゃに運動をしている
ここまで散々「おかしくなることに慣れた」と書いてきたが、一つだけ、私がかろうじて掴んでいるものがある。
めちゃくちゃに運動をしている。
去年の秋、眠れない夜が続いた頃、ジムに行き始めた。最初は「AIに奪われた身体性を取り戻す」みたいな大層な動機ではなかった。ただ、4Kモニターの前で18時間過ごした後の肩と腰が限界だったからだ。
それが今ではキックボクシング、柔術、パーソナルトレーニング。週5〜6で身体を動かしている。
なぜこれが効くのか。最初は分からなかった。理屈は後からついてきた。
キックボクシングのミット打ちに入る。トレーナーが構えるミットに向かって、ジャブ、ストレート、フック。コンビネーションを指示される。この一連の動作の間、頭の中は完全に空白になる。無心になる。 AIのことを考えていない。エージェントの出力を考えていない。Slackの通知を考えていない。考えているのは、「拳の角度」「腰の回転」「次の指示」、それだけだ。相手のミットに拳が当たる瞬間、世界はミットと私の身体だけになる。
柔術はもっと顕著だ。スパーリングで組み合っている時、一瞬でも意識が飛んだら極められる。相手の重心、自分の姿勢、次のポジション。全神経が「今ここ」に集中せざるを得ない。いかなるプロンプトも受け付けない時間。 考えごとをする余裕は物理的にない。
パーソナルトレーニングでは、トレーナーが私の身体を見ている。フォームが崩れれば指摘される。重量が適切かどうか判断される。AIではない人間が、私の身体を通して私と向き合っている。 この非効率で、非スケーラブルで、1対1でしかあり得ない関係性が、1-Nの世界では得がたいものになった。
散歩では足りなかった。加速文化の重力を振りほどくには、もっと強い物理的な力が必要だった。殴る蹴る組む、という圧倒的に単純で、圧倒的に嘘のつけない力が。
朝、ジムに行く。ミットを打つ。マットに転がる。その瞬間だけ、私は確実に「ここにいる」と言える。AIの出力でも、エージェントのコミットログでもない、紛れもなく私の身体がここにある。汗をかいている。息が上がっている。殴られたら痛い。
変容は変わらない。ジムに通い始めて半年、AIとの関係は何も変わっていない。ジムから帰ってシャワーを浴び、PCの前に座った瞬間、またエージェントを起動している。でも60分の「ここにいる」があるのとないのとでは、変容した後の日常の質が違う。たぶん。
去年の自分への手紙
去年7月、私はこう締めくくった。「居るなら俺を救ってくれ…。」
8ヶ月前の自分に伝えることがあるとすれば、こうだ。
誰も救ってはくれない。そして、救われる必要もなかったのかもしれない。
去年の私が恐れていたのは「AIと比較される自分の無能さ」だった。日に日に賢くなるAIと、日に日に衰える自分。その非対称性が耐えられなかった。
今の私はもう比較していない。AIが書いたコードと自分が書いたコードの区別がつかない。AIが考えたアイデアと自分が考えたアイデアの区別がつかない。AIとの対話の中で生まれた思考は、AIのものなのか、自分のものなのか。区別がつかないことを、去年は恐れていた。今は、区別する必要を感じない。
SFでは世界の終わりは劇的だ。人類の意識が一斉に停止する。遺伝子が書き換えられて別の生物になる。ある日を境に、前の世界と後の世界がはっきり分かれる。私に起きたのはそういう終わりではなかった。もっと地味で、もっとぬるぬるしていた。意識は停止していない。停止していないのに、意識の出力が自分のものであるという確信だけが、静かに薄れていった。 どの瞬間に変わったのか、誰にも——本人にすら——指させない。
これは悲劇なのか? 分からない。ただ、最近こうも思う。何かに適応するということは、前の世界から見たら「おかしくなる」ということではないだろうか。
8ヶ月前の私から見た今の私は、確かにおかしい。AIなしで文章を書くという発想が出てこない。自分のコードの一行も自分では書かない日がある。それを「おかしくなった」と呼んでいる。でも、これが適応なのだとしたら? 新しい環境に適応した結果が「おかしい」ように見えるだけなのだとしたら? 適応には麻痺が伴う。前の感覚を鈍らせることで、新しい環境に馴染む。適応の完了とは、違和感の死だ。 私はもう違和感を感じていない。
分からない。適応と退化の区別がつかない。1-Nの陶酔は確かに気持ちよかった。全能感があった。あの感覚は確かに気持ちいい。気持ちいいまま、気がついたらここにいた。ここがどこなのか、うまく説明できない。適応の先なのか、退化の果てなのか。たぶん、両方だ。
ちょっとだけ先におかしくなりはじめた人間から君へ
別に早いから偉いわけではない。たまたま先に同じ道を通っただけだ。先に転んだ人間のほうが、石の場所を知っているというだけの話だ。
「おかしくなっている自分」を認識できているうちは、まだ変化の途中にいる。私はもう変化の向こう側にいる。これすらも途中かもしれないが。去年7月の記事を読み返すと、あの文章を書いた人間が自分だという実感が薄い。8ヶ月前の自分は、AIを「道具」として使っていた。今の私にとって、AIは道具ではなく環境だ。水の中にいる魚に「水を使っていますか」と聞いても意味がないように、AIの中にいる私に「AIを使っていますか」と聞いても意味がない。
だから、先に転んだ人間として、2つだけ伝えておく。
物語を読め。答えの出ないものに触れろ。
AIは常に答えを返す。小説は答えを返さない。その沈黙の中に、最適化できない人間の時間がある。寝る前の30分でいい。エージェントを閉じて、ページを開け。
身体を動かせ。何でもいい。
私の場合はキックボクシングと柔術だった。ランニングでもいい。ダンスでもいい。水泳でもいい。加速を忘れられるものなら何でもいい。 大事なのは、AIが介在しない時間を身体に作ることだ。散歩では足りなかった、と先に書いた。でもそれは私の場合だ。散歩で十分な人もいる。自分に合うものを見つけてくれればいい。
AIは精神を加速させる。無限に。際限なく。物語と身体は、その加速の外にある数少ないものだ。物語は答えを保留し、身体は最適化を拒む。どちらも、AIが手を出せない領域にある。
これで元に戻れるかと聞かれたら、戻る場所がない。変容した後の自分で、物語を読んで、ジムに通っている。ただ、変わったまま立っていられるようになった。それだけで十分なのかもしれない。
小説を読みます。ジムに行きます。