はじめに
「おい、辞めるな」で辞めないことを選んだ。
「おい、辞めないなら頑張れ」で頑張り方を学んだ。
見せろ。対話しろ。上司を勝たせろ。スポンサーを作れ。そう書いた。
で、やってみてどうだった。
正直に言う。私はうまくいかなかった。見せているつもりだった。対話しているつもりだった。上司を勝たせようとしていた。でも、空回りしていた。
なぜか。組織の力学を理解していなかったからだ。
いや、もっと正確に言おう。理解しようとしなかった。組織の力学——いわゆる「政治」——を、私は嫌悪していた。「実力で勝負したい」「政治なんかに関わりたくない」——そう思っていた。技術的な正しさを盾に、人間関係の機微を「非論理的」と切り捨てていた。
以前、「正義のエンジニアという幻想」という記事を書いた。
あの記事で書いたことは、今でも私の中に残っている。媚びないことと無礼であることの区別もつかないまま、技術的優位性を振りかざしていた——そんな恥ずかしい過去を、私は持っている。
今回は、その続きを書く。組織の力学について。私が嫌悪していたもの。でも、理解しなければ成果を出せないもの。そして、したたかに生きるということについて。
先に結論を言っておく。理解することと、加担することは違う。そして、政治をやっている人は「汚い大人」ではない。泥臭く仕事を通そうとしているだけだ。
正直に告白する。この記事を書くことには抵抗があった。「政治のやり方を教える」みたいで、気が進まなかった。でも、過去の自分が知りたかったことを書く。飲み屋でそれを喋る。それがこの「おい、」シリーズの趣旨だ。
おい、頑張るなら組織と踊れ。——と書いて、自分でも苦い顔をしている。
このブログが良ければ読者になったり、nwiizoのXやGithubをフォローしてくれると嬉しいです。
私は「正義のエンジニア」だった
最初に告白しておく。私はかつて、自分の技術思想とキャリア戦略が100%正しいと信じて疑わなかった。そして、それを受け入れない企業、同僚たちが100%間違っていると本気で思っていた。
今思えば、それはソフトウェアエンジニアという職業に就いた多くの若い人が陥る、ある種の思春期的な錯覚だったと思う。
- 「なぜこんな非効率的な実装をするんですか?」
- 「技術的にはこっちの方が正しいんですけどね」
- 「政治的な理由で技術選定するなんて、エンジニアリングの敗北だ」
そんな言葉を、私は何度思って何度口にしたことだろう。
ある会議で、私は技術的に正しい提案をした。データに基づいていた。論理的だった。反論の余地がないと思っていた。
却下された。
理由は曖昧だった。「今はタイミングが悪い」「もう少し検討が必要」。でも、本当の理由は別にあった。私は後から知った。あの提案は、ある部門の利害と衝突していた。その部門のキーパーソンに、事前に話を通していなかった。だから、会議の場で潰された。
私はその事実を伝えられた時に密かに怒った。「政治で正しい提案が潰されるなんて、おかしい」と。
でも、冷静に考えると、私の方がおかしかった。技術的に正しいことと、組織で通ることは、別の問題だ。私はその区別ができていなかった。
これは「誰に話を通すか」の問題だった。でも、組織の力学を理解していないことは、別の形でも現れた。
あるプロジェクトで、私は黙々と成果を出していた。技術的な課題を解決し、納期を守り、品質を担保した。「これだけやれば評価されるだろう」と思っていた。
評価面談で、上司はこう言った。「〇〇さんの貢献は分かっているんだけど、他のマネージャーに説明しにくいんだよね」。
私は意味が分からなかった。成果を出しているのに、なぜ説明しにくいのか。
後から分かった。私の仕事は「見えなかった」のだ。他のマネージャーは、私が何をしているか知らなかった。評価会議で私の名前が挙がっても、「誰?」という反応だった。私の上司は、私を推そうにも、材料がなかった。
見えない仕事は、存在しないのと同じ——「おい、辞めないなら頑張れ」で書いたことだ。でも、それは「見せる」だけでは解決しない。誰に見せるか。どのタイミングで見せるか。どの文脈で見せるか。それを間違えると、見せても意味がない。
私は「政治」を嫌悪していた。でも、その嫌悪が、私自身の足を引っ張っていた。
媚びないと無礼を混同していた
ここで、痛い告白をする。
「私は媚びない」——それが私のプライドだった。
しかし「媚びない」と「無礼」は違う。私は単に無礼だった。
コードレビューで、つい正論を優先してしまう癖があった。「このコード、正直ひどくないですか?全部書き直した方が早いです」——そんなコメントを書いていた。
ある日、シニアエンジニアが個別に連絡をくれた。
「君の指摘は技術的には正しい。でも、そのコメントを見た人がどう感じるか考えたことある?彼は他のタスクも抱えながら、期限に間に合わせようと必死だった。君のコメントは、その努力を全否定している」
その言葉にハッとした。私は技術的な正しさばかりを見て、人の気持ちを踏みにじっていたのだ。
別の機会には、マネージャーが1on1で厳しい指摘をした。「君は優秀だ。でも、チームメンバーが君を避け始めている。それでいいの?技術力があっても、一人では何も作れないよ」
媚びないことと、相手を尊重することは両立する。でも当時の私にはその区別がつかなかった。
率直であることと配慮がないことを混同していた。技術的な正しさを盾に、人としての礼儀を忘れていた。
私は様々な言い訳を用意していた。
- 「エンジニアは成果で評価されるべきだから人間関係は二の次」
- 「技術的に正しいことが最優先だから言い方なんて些細な問題」
- 「実力があれば多少の態度の悪さは許される」
これらはすべて、自分の社会性の欠如を正当化するための、頭の悪い言い訳だった。まるで反抗期の中学生が「大人は汚い」と言い訳するように、私は「技術的正しさ」を盾に、自分の未熟さを隠していたのだ。
転機は、年次が上がって後輩ができたときに訪れた。
私の何気ない「それは違うよ」という一言で、新卒エンジニアが完全に萎縮してしまった。その後、彼は私に質問することを避けるようになり、分からないことを抱え込むように。私は、かつて自分が嫌っていた「怖い先輩」になっていたのだ。
このとき、ようやく理解した。
正しいことを、正しい方法で伝えられなければ、それはただの暴力だ。
技術力は重要だが、それをどう使うかはもっと重要。正しいことを言っているつもりで、実際には相手の立場に立てていなかっただけだった。
そういう時代もあったでよい
ここで、過去の自分との向き合い方について書いておく。
ある時期、私は過去の失言や態度を思い出しては、布団の中で悶えていた。「あの時、なぜあんなことを言ったんだ」「もっと早く気づいていれば」——後悔の反芻は止まらなかった。
コードレビューで人を傷つけた記憶。会議で空気を凍らせた記憶。「正しいことを言っているのに、なぜ分かってもらえないんだ」と憤っていた記憶。思い出すたびに、顔が熱くなった。
でも、ある時気づいた。過去を責めても、過去は変わらない。変えられるのは、これからだけだ。
だから、こう割り切ることにした。「過去はすべて正しかった」と。
誤解しないでほしい。過去の行動が道徳的に正しかったと言いたいわけではない。あの無礼な態度は、やはり間違っていた。でも、あの経験があったから、今の自分がいる。痛い目に遭わなければ、私は変われなかった。あの失敗がなければ、この記事を書くこともなかった。
過去を否定し続けると、エネルギーが過去に吸い取られる。後悔に費やす時間は、未来への投資に使えない。「あの時こうすればよかった」と100回考えるより、「これからどうするか」を1回考える方が、よほど生産的だ。
過去を受け入れろ。そして、これからの人生に全力で取り組め。
私は自分の未熟さを認めた。媚びないことと無礼の区別がついていなかったことを認めた。では、これからどうするか。
答えは明確だった。組織の現実を、ちゃんと見ることだ。
私が見ようとしなかったもの。「政治」と呼んで嫌悪していたもの。でも、理解しなければ前に進めないもの。——組織の力学について、正面から向き合う時が来た。
組織には「裏の顔」がある
ここで、現実を直視しよう。
組織には、公式なルールと非公式な力学の2つが常に存在している。
公式なルールは分かりやすい。組織図、職務権限、承認フロー、評価制度。これらは明文化されていて、誰でもアクセスできる。
でも、それだけで組織が動いているわけではない。
非公式な力学とは、「正式な手続きには定められていないが、意思決定や資源配分に影響を与える行動」のことだ。根回し、人脈、暗黙の了解、派閥、影響力のある人物——そういうものだ。
私はこれを「汚いもの」だと思っていた。でも、違った。彼らは汚いのではなく、泥臭いだけだった。
非公式な力学は「善悪」ではなく「手段」だ。
根回しは悪いことか。場合による。自分の私利私欲のためなら問題だ。でも、良いプロジェクトをスムーズに通すためなら、むしろ必要なことだ。関係者の懸念を事前に把握し、対処しておく。それは「政治」ではなく「配慮」とも呼べる。
私が嫌悪していたのは、「非公式な力学」そのものではなかった。それを私利私欲のために使う人間だった。でも、手段と目的を混同していた。手段自体は中立だ。それをどう使うかが問題なのだ。
ここで1つ、大事なことを言っておく。
非公式な力学を理解することと、それに迎合することは違う。
力学を理解した上で、「自分はこの手段は使わない」と決めてもいい。でも、理解せずに無視するのは、ただの怠慢だ。敵を知らずに戦っているようなものだ。
私は長い間、「政治を理解する」こと自体を拒否していた。理解したら、自分も「あっち側」になる気がした。でも、それは間違いだった。理解することと、加担することは違う。そして、「あっち側」の人たちは、別に悪者ではなかった。ただ、泥臭く仕事を通そうとしていただけだった。理解した上で、どう振る舞うかは自分で決められる。
組織図を信じるな
次に、私が痛い目を見た話をする。
組織図に描かれた権限構造と、実際に物事を動かせる力は違う。
あるプロジェクトで、私は承認を得るために、組織図上の決裁者に話を持っていった。正式なルートだ。決裁者は「いいんじゃない」と言った。私は安心した。
プロジェクトは頓挫した。
何が起きたか。決裁者は「いいんじゃない」と言ったが、実際に動く現場のキーパーソンは別にいた。その人は私の提案に反対だった。決裁者が「いい」と言っても、現場が動かなければ、何も進まない。
私は組織図を信じすぎていた。「誰が決裁権を持っているか」と「誰が実際に物事を動かせるか」は違う。
そして後から気づいたことがある。同じ提案でも、事前に相談していれば通っていた可能性が高い。
あのキーパーソンに、会議の前に一度話を聞きに行っていたらどうだっただろう。「こういうことを考えているんですが、懸念点はありますか?」と。相手の観点や懸念が事前に分かれば、提案に反映できる。相手も「聞いてもらった」という感覚がある。
「聞かされていない」は、「間違っている」より強い反対理由になる。
内容の良し悪しではない。プロセスの問題だ。
これは単なる感情論ではない。組織心理学では「手続き的公正」と呼ばれる概念がある。人は、結果だけでなく、そこに至るプロセスが公正かどうかを重視する。自分の意見を聞いてもらえた、自分も関与できたという感覚があれば、たとえ結果が自分の望み通りでなくても、受け入れやすくなる。逆に、プロセスから排除されたと感じると、結果が正しくても反発する。
私が会議で潰された提案は、まさにこれだった。内容は正しかった。でも、関係者は「自分は聞かれていない」と感じた。関係者に事前の相談なく、いきなり会議の場で出したことが、「あなたの意見は聞く必要がない」というメッセージになっていた。それだけで、反対する十分な理由になった。
技術的に正しいかどうかと、組織で通るかどうかは、別の問題だ。そして、事前に挨拶して、相談して、懸念を聞いておく——それだけで結果が変わることが、驚くほど多い。
ここで、少し視点を変えた話をする。
私は下っ端として組織図に騙されてきた。でも、ある時気づいた。上に立つ人間こそ、この罠にはまりやすいのだと。
下っ端の経験が少ない若いCEOやCTOが率いる組織を見てきた。彼らは往々にして、表側の組織図ばかり意識する。そして、裏側の関係性——長年かけて築かれた非公式なネットワーク——を軽視して、ドラスティックな組織変更をする。
「この部署とこの部署を統合しよう」「この人をあのチームに異動させよう」——組織図の上では合理的に見える。でも、その変更が裏のネットワークをぐちゃぐちゃにすることがある。誰と誰が信頼関係を築いていたか。どのルートで情報が流れていたか。誰が実質的なキーパーソンだったか。それを無視して箱だけ動かす。
若い頃の私は、そういうリーダーを「革新的だ」「スピード感がある」と思っていた。古い慣習を壊して、新しい組織を作る。カッコいいと思っていた。
大人になった今は、違う見え方をする。成果を出すために、下の人間が苦労している。壊された関係性を、現場が必死で繋ぎ直している。組織図の上では「改革成功」に見えても、実際は現場の努力で何とか回っているだけ。
これは「組織図を信じるな」の裏返しだ。組織図だけを見て動く危険は、下っ端だけの問題ではない。リーダーが組織図だけを見て動くと、現場が壊れる。
私が組織の裏側を理解しようとするようになったのは、こういう経験も影響している。組織図の裏にあるものを無視すると、どうなるか。それを見てきたからだ。
では、「組織図の裏にあるもの」とは、具体的に何か。
私はそれを「影のネットワーク」と呼んでいる。かっこいい名前をつけたいわけではない。組織図には描かれないが、確実に存在するもの。それを言語化するために、この言葉を使っている。
そしてその核心は、役職とは別に存在する権力だ。
権力とは、役職に基づく権限だけではない。反対や抵抗を乗り越えて物事を実現する力。人を惹きつけ、巻き込む力。意思決定に実質的な影響を与える力。これらは、役職とは別に存在する。
例えば、古株のベテラン社員。役職は高くないが、社内の歴史を全部知っている。誰と誰が仲が悪いか、過去にどんなプロジェクトが失敗したか、どの部署が何を嫌がるか。その人を味方につけると物事がスムーズに進む。敵に回すと、見えない抵抗にあう。
例えば、経営者の信頼が厚い若手。役職は低いが、経営者に直接話ができる。その人の意見は、なぜか上まで届く。
私は、この「影のネットワーク」を読めていなかった。組織図だけを見て、「この人に話を通せばOK」と思っていた。でも、組織図の裏には、別のネットワークがあった。
なぜ「影のネットワーク」が存在するのか。理由は単純だ。組織図は「権限」を示すが、「実行力」を示さない。決裁権を持つ人が「やれ」と言っても、実際に手を動かす人が動かなければ、何も起きない。そして、実際に手を動かす人を動かせるのは、必ずしも決裁権を持つ人ではない。
組織が大きくなるほど、この乖離は広がる。決裁者は現場から遠くなり、現場の信頼関係は決裁者の目に見えなくなる。結果として、「承認されたのに進まない」「反対されていないのに協力が得られない」という現象が起きる。これは個人の悪意ではない。権限と実行力が分離している構造の問題だ。
組織図の裏にある「影のネットワーク」を読み解け。どの提案に誰が反発するか。誰を味方につければ障壁を突破できるか。情報がどのルートで流れるか。これが見えるようになると、立ち回り方が変わる。
ここで、私が学んだ具体的な方法を書いておく。
1. 会議での反応を観察する
誰かが発言したとき、他の人の表情を見る。賛成しているのか、本音では反対なのか、無関心なのか。言葉ではなく、表情や態度に本音が出る。
2. 「あの人に聞いてみたら」の連鎖を追う
何か新しいことを始めようとしたとき、「あの人に聞いてみたら」と言われる人がいる。その人が、実質的なキーパーソンだ。組織図上の役職とは関係ない。
3. 過去の意思決定を遡る
大きな決定が下されたとき、「誰がどの段階で関わっていたか」を調べる。公式の決裁者だけでなく、その前に相談されていた人。その人が、影響力を持っている。
4. ランチや雑談の相手を観察する
誰と誰がよく一緒にいるか。情報は公式のルートだけでなく、非公式の人間関係を通じて流れる。
ここまでが「見る」段階だ。では、見えたものをどう使うか。
観察した後にどうするか
観察だけでは意味がない。観察した情報を、行動に変える必要がある。
キーパーソンが分かったら、提案の前に一度相談に行く。反対しそうな人が分かったら、その人の懸念を先回りして潰す。情報のルートが分かったら、そのルートに自分の情報を流す。
最初は気が重い。「なぜこんな面倒なことを」と思う。でも、一度やってみると、驚くほど物事がスムーズに進む。私も最初は抵抗があった。でも、「正しい提案が政治で潰される」ことに比べれば、事前の相談なんて些細な手間だと気づいた。
私が変わるまでの話
ここまで読んで、「分かったけど、やっぱり嫌だ」と思う人がいるだろう。
「政治なんかしたくない」「実力で評価されるべきだ」「こんなことに時間を使いたくない」。
その気持ちは分かる。私もそうだった。そして正直に言えば、今でも完全には割り切れていない。
私が組織の力学をどう受け止めてきたか、正直に書く。
最初は、拒絶していた。長い間、ずっとそうだった。
「実力で評価されるべきだ」「政治をやる奴は汚い大人だ」「自分はそういうことはしない」。そう思っていた。
この時期は、現実とのギャップに苦しんだ。「なんで自分より実力のないあいつが評価されるんだ」「この会社はおかしい」。怒りや失望があった。でも、状況は変わらなかった。
居酒屋で同僚と愚痴を言っていた。「あいつは政治がうまいだけだ」「実力で勝負しろよ」。言うたびに少し楽になった。でも、翌日も同じ状況が続いた。
全ての原因を外部に求めていた。自分が提案した新技術が却下されれば「老害が変化を恐れている」と憤り、レガシーコードの改修を任されれば「俺の才能の無駄遣い」と不満を漏らし、ドキュメント作成を頼まれれば「エンジニアの仕事じゃない」と文句を言う。
でも振り返ってみれば明らかだ。問題は私自身にあった。技術的な正しさだけを追求し、ビジネス的な制約や組織の事情を理解しようとしなかった。
転機があった。
尊敬していた先輩が、根回しをしているのを見た。「あの人も政治をやるのか」と最初は失望した。でも、よく見ると違った。先輩は、良いプロジェクトを通すために、関係者の懸念を事前に聞いて回っていた。それは「政治」というより「配慮」だった。
「政治」と「配慮」の境界は曖昧だ。私が嫌悪していた「政治」の中には、実は「配慮」も含まれていた。それに気づいてから、少し楽になった。
組織の力学を「存在するもの」として認められるようになった。好き嫌いを超えて、「まあ、そういうものだよな」と思えるようになった。過度に振り回されない心理的安定が生まれた。
今はどうか。正直に言う。私はまだ、完全には割り切れていない。
根回しをすることに、今でも抵抗がある。「これは本当に必要なのか」「実力で勝負すべきじゃないのか」と思う。でも、必要な場面では、やるようになった。割り切れないまま、やっている。
——と書いて、立ち止まる。
私と同じように変われ、と言いたいわけではない。どこまで受け入れるかは、自分で決めていい。「存在は認めるけど、自分はやらない」でもいい。「存在を認めることすら嫌だ」なら、別の環境を探してもいい。
ただ、組織の力学を拒絶し続けていると苦しい。現実と理想のギャップに消耗し続ける。だから、少なくとも「存在を認める」ところまでは進んだ方が、楽になる。その先は、自分で決めればいい。
譲れないもののために、譲るものを決める
「存在を認める」ところまで進んだとする。
でも、それだけでは足りない。認めた上で、どう振る舞うか。全部受け入れるのか。全部拒否するのか。——どちらも違う。私が辿り着いた答えは、もっと戦略的なものだった。
ここで、私が学んだ重要なことを書く。
本質を守るために、形式では妥協する。
やがて私は真剣に考えるようになった。自分が本当に譲れないものは何か?
見極める基準は1つ。「あったらいいな」は捨てろ。「なくなったら壊れる」だけを守れ。
私にとって譲れないのは3つだった。
1つ目は技術的な誠実さ。嘘はつかない、質の低いコードは書かない。これを失ったら、自分を信頼できなくなる。2つ目はユーザーファースト。エンドユーザーの利益を最優先する。これを失ったら、仕事の意味を感じられなくなる。3つ目は継続的な学習。常に新しいことを学び続ける。これを失ったら、市場価値が消える。
これ以外は、状況に応じて柔軟に対応することにした。表現方法やタイミングを妥協しても、私は壊れない。だから手放せる。
表現方法では本音を建前でオブラートに包むようになった。タイミングも最適な時期を待つように。プロセスでは目的のためなら遠回りも受け入れ、形式的には無駄に見える会議や書類も必要なら対応するようになった。
全てを守ろうとすると、全てを失う。
なぜか。理由は単純だ。妥協できない領域が増えるほど、交渉の余地は減る。交渉の余地が減るほど、衝突は増える。衝突が増えるほど、消耗する。消耗すると、本当に守りたかったものまで守るエネルギーがなくなる。
私は以前、表現方法でも、タイミングでも、プロセスでも、一切妥協しなかった。「正しいことを、正しいタイミングで、正しい方法で言う」——それが自分の信念だと思っていた。結果、毎回衝突し、毎回消耗し、最終的には技術的な誠実さすら保てなくなった。疲れ果てて、どうでもよくなったのだ。
だから、何を守り、何を手放すかを決める。これが大人の戦略だ。
以前は、「妥協=敗北」だと思っていた。でも違った。戦略的な妥協は、本質を守るための手段だ。形式で妥協し、本質を守る。それは負けではない。むしろ、本当に大事なもののために、大事でないものを手放す勇気だ。
したたかに生きる戦略
「譲れないものを守り、それ以外では妥協する」——それは分かった。
でも、正直に言えば、それだけでは物足りない。守りに入っているだけだ。もっと攻めの姿勢で、組織を「利用」することはできないのか。——そう考えるようになった。
ここで、もう一歩踏み込んだ話をする。
技術は手段であって目的ではない——組織から見れば、そうだ。
でも正直に言えば、私自身は技術的な興味に駆動されている。新しい技術を学ぶことが楽しいし、エレガントなコードを書くことに喜びを感じる。ビジネス価値なんてどうでもよくて、ただ面白い技術を触っていたいだけ、というのが本音だ。
でも、お金をもらって仕事をする以上、建前上それが主目的とは言いづらい。
だからこそ「したたかにやろうぜ」という考え方が大切なのだ。
つまり、組織が求める「成果」という枠組みを利用して、自分の技術的好奇心を満たすということ。表向きは「ビジネス価値の創出」を掲げながら、実際には「面白い技術で遊ぶ」ための正当性を確保する。
例えば、「パフォーマンス改善」という大義名分のもとで、最新のフレームワークを導入する。「開発効率の向上」という建前で、面白そうなツールチェーンを構築する。「技術的負債の解消」という錦の御旗を掲げて、自分が書きたいようにコードを書き直す。
重要なのは、これらの建前が単なる口実ではなく、実際に価値を生み出すことだ。新技術で遊びながら、本当にパフォーマンスを改善する。好きなツールを使いながら、実際に開発効率を上げる。コードを書き直しながら、本当に保守性を向上させる。
ここで正直に告白しておく。私はこの戦略で失敗したことがある。
「開発効率の向上」を名目に、面白そうなビルドツールを導入した。確かに面白かった。でも、チームの学習コストを甘く見積もっていた。結果として、効率は上がるどころか下がった。建前が嘘になった瞬間、「あいつは自分のことしか考えていない」という評価が下された。信頼を取り戻すのに、かなりの時間がかかった。
したたかさの前提は、建前が本当に価値を生み出すことだ。建前が嘘になった瞬間、したたかさは不誠実に変わる。自分が楽しいかどうかではなく、本当に成果が出るかどうか。その見極めを間違えると、戦略は破綻する。
「プロフェッショナルとして責任を果たします」と胸を張りながら、心の中では「やった!これで堂々とRustが書ける!」と小躍りする。この二重構造こそが、エンジニアとしてのしたたかさだ。ただし、小躍りする前に、本当に成果が出るかを冷静に見極めること。それを怠ると、私のように痛い目を見る。
組織は成果を得て満足し、私たちは技術的満足を得る。Win-Winの関係を作り出すこと。それは決して不誠実ではなく、むしろ異なる価値観を持つ者同士が、お互いの利益を最大化する賢明な戦略なのだ。
組織をハックしろ。建前で成果を出し、本音で技術を楽しめ。
影響力は才能ではなくスキルだ
ここまで「したたかにやれ」と書いてきた。
「でも、自分は政治が苦手だ」という人がいるだろう。分かる。私もそうだった。というか、今でもそうだ。人の顔色を読むのが苦手だし、根回しは面倒くさいと思っている。
でも、安心してほしい。影響力は先天的な才能ではなく、後天的に磨けるスキルだ。
私も苦手だった。今でも得意とは言えない。でも、意識して練習することで、少しずつマシになった。
組織における対人影響力は、5つの能力で構成されている。これらは「観察→洞察→共感→表現→一貫性」というプロセスで連鎖する。
1. 観察——表面を見る
最初の能力は観察だ。目の前で起きていることを正確に捉える。
何を観察するか。言葉——誰が何を言ったか。態度——表情、姿勢、声のトーン。関係——誰と誰が近いか、誰が誰を避けているか。反応——ある発言に対して、他の人がどう反応したか。
観察は受動的な行為に見えるが、意識しないとできない。会議で自分の発言に集中していると、他の人の反応を見落とす。発言を減らし、観察を増やす——これだけで得られる情報量は変わる。
2. 洞察——本質を見抜く
観察の次は洞察だ。表面の情報から、見えないものを推測する。
洞察とは何か。動機を読む——この人は何を求めているのか、何を恐れているのか。構造を読む——この組織で、誰が実質的な力を持っているのか。文脈を読む——この議論は、どんな歴史の上に成り立っているのか。
観察が「何が起きているか」を捉えるなら、洞察は「なぜ起きているか」を捉える。同じ事象を見ても、洞察の深さで解釈は変わる。表面的な反対意見の裏に、本当の懸念が隠れていることがある。
3. 共感——相手の立場に立つ
洞察の次は共感だ。相手の世界を、相手の視点から理解する。
共感は「同意」ではない。相手の意見に賛成しなくても、相手がなぜそう考えるかを理解することはできる。「この人の立場なら、確かにそう思うだろう」——その理解があれば、対立は減る。
エンジニアは共感を軽視しがちだ。論理が正しければ、相手の感情は関係ないと思っている。しかし、人は論理だけでは動かない。自分の立場を理解してくれていると感じたとき、初めて耳を傾ける。
4. 表現——相手に響かせる
共感の次は表現だ。自分の考えを、相手に届く形で伝える。
表現の本質は「相手に合わせる」ことだ。論理で動く人には論理を。感情で動く人には感情を。利害で動く人には利害を。同じ提案でも、切り口を変えれば響き方が変わる。
「伝える」と「伝わる」は違う。自分が言いたいことを言うのは「伝える」。相手が受け取れる形で届けるのが「伝わる」。影響力とは「伝わる」力だ。
5. 一貫性——信頼を積む
最後は一貫性だ。これが他の4つを支える土台になる。
一貫性とは何か。言ったことを実行する。約束を守る。嘘をつかない。単純だが、最も難しい。
なぜ難しいか。一貫性を保つには、「できない約束をしない」という自制が必要だからだ。期待に応えたくて、つい「やります」と言ってしまう。しかし、守れない約束は信頼を削る。「できません」と言える人の方が、長期的には信頼される。
一貫性がなければ、観察も洞察も共感も表現も、すべて無駄になる。「あの人の言うことは当てにならない」——そう思われた瞬間、影響力は消える。
これら5つは、すべて後天的に磨けるスキルだ。生まれつきの才能ではない。ただし、順番がある。土台となる「一貫性」がなければ、他の4つは機能しない。まず信頼を築き、その上に観察・洞察・共感・表現を乗せる。
「専門性」と「人望」が最強のカードだ
ここまで「組織の力学を理解しろ」「影響力を磨け」と書いてきた。
でも、ここで安心してほしいことがある。
最も持続する影響力は「専門性」と「人望」から生まれる。
なぜそう言えるのか。少し整理してみる。
人が他人を動かす力——影響力には、いくつかの種類がある。ソフトウェアエンジニアの現場で見かける例で説明する。
報酬で動かす場合がある。「このリファクタリングを完了させたら、次のスプリントで好きな技術調査の時間をあげる」。評価で動かすこともある。「このタスクを断ったら、次の評価に響くよ」。役職で動かすパターンもある。「テックリードの判断だから、この設計で行く」。データで動かすこともできる。「ベンチマークの結果、この実装の方が30%速い」。
そして、専門性で動かす場合がある。「Kubernetesのことなら〇〇さんに聞けば間違いない」。人望で動かす場合もある。「あの人が言うなら、きっと理由があるはず」。
このうち、専門性と人望が最も強い。
なぜか。この2つは、相手が「自分から納得して動く」ときに生じるからだ。
報酬・評価・役職で動かす場合、相手は「仕方なく」動いている。上司が変わったり、評価制度が変わったりすれば、その影響力は消える。「テックリードが言うから従う」で動いていたチームは、テックリードがいなくなれば元に戻る。
専門性と人望で動かす場合、相手は「この人の言うことだから」と自分から動いている。その人がいなくなっても、「あの人ならどう判断するだろう」と考え続ける。影響が内面化されている。
外からの圧力で動いた行動は、圧力がなくなれば止まる。内側から納得して動いた行動は、続く。
ただし、注意点がある。どのカードが強いかは、組織や部署によって違う。
エンジニアだけの組織では、データが圧倒的に強い。「ベンチマークの結果」「障害の根本原因分析」「パフォーマンス計測」——数字で示せば、それだけで説得力がある。論理と数字を重視する文化があるからだ。
でも、営業部門やマーケティング部門では違う。データより「この人が言うなら」という人望が効くことがある。経営層との会議では、役職や過去の実績が重みを持つ。同じ会社でも、部署が変われば有効なカードは変わる。
私はエンジニア組織にいることが多いので、データと専門性に頼りがちだ。でも、他部署との調整では、それだけでは通用しないことを何度も経験した。相手が何を重視するかを見極めて、カードを使い分ける必要がある。
だから、長期的な影響力を構築するなら、専門性を磨き、人として尊敬される存在になることが最も確実な方法だ。専門性と人望は、どの組織でも比較的通用しやすい。
「政治力を磨け」と言われると抵抗がある人も、「専門性を磨け」なら抵抗がないだろう。実は、専門性を磨くことは、組織における影響力を高める最も正攻法なアプローチなのだ。
ここで、私の経験を1つ書いておく。
ある領域で、私はチームの中で一番詳しくなった。別に政治をしたわけではない。ただ、その領域を深掘りし続けた。ドキュメントを読み、実験し、知見を共有した。
すると、向こうから相談が来るようになった。「〇〇のことは△△さんに聞けばいい」という評判が立った。会議で発言すると、その領域については私の意見が尊重されるようになった。
これは「政治」ではない。専門性による影響力だ。
ただし、専門性を万能視するのは危険だ。限界もある。
具体的に言おう。専門性が効くのは「その領域の意思決定」に限られる。組織全体の方向性、予算配分、人事——こういった領域横断的な意思決定では、専門性だけでは戦えない。私も経験がある。技術的な判断では尊重されるようになったが、プロジェクトの優先順位を決める会議では、相変わらず発言力がなかった。専門性は「深さ」を与えるが、「広さ」は別の力学で決まる。
それでも、専門性があれば、政治力が弱くても、ある程度は戦える。少なくとも、自分の専門領域では発言権が得られる。そこを足がかりにして、徐々に影響力を広げていくことができる。
だから、「政治が苦手だ」という人に言いたい。まず専門性を磨け。それが最も確実な道だ。政治力は、専門性という土台の上に乗せるオプションとして考えればいい。土台がないまま政治力だけ磨いても、長続きしない。
組織と踊るための心構え
最後に、心構えの話をする。
おい、頑張るなら組織と踊れ。これは「組織に従属しろ」という意味ではない。
ダンスは、相手の動きを感じながら、自分も動く。一方的にリードするわけでも、一方的にフォローするわけでもない。相手と自分の動きが調和して、初めてダンスになる。
組織も同じだ。
組織の力学を無視して突っ走ると、壁にぶつかる。かといって、組織に完全に従属すると、自分の意志がなくなる。
組織の力学を理解し、その中で自分の目標を追求する。組織を動かしながら、自分も動く。これが「組織と踊る」ということだ。
組織を敵視するな。かといって、盲従するな。
組織は、自分の目標を達成するためのプラットフォームだ。うまく使えば、一人ではできないことができる。敵視していたら、使いこなせない。
短期の勝ち負けにこだわるな。
組織での影響力は、長期的に築くものだ。一回の会議で勝った負けたは、大した問題ではない。信頼の蓄積、専門性の蓄積、関係性の蓄積。これらが時間をかけて積み上がったとき、本当の影響力が生まれる。
自分の価値観を失うな。
組織の力学を理解し、活用することと、自分の価値観を捨てることは違う。「この方法は使えるけど、自分はやりたくない」と思うなら、やらなくていい。別の方法を探せばいい。
「媚びない」ことと「無礼」であることは全く違う。前者は信念を持つことであり、後者は単なる社会性の欠如だ。同様に、「したたか」であることと「ずる賢い」ことも違う。前者は双方の利益を最大化する戦略的思考であり、後者は単なる利己主義だ。
私は今でも、根回しに抵抗がある。でも、必要な場面ではやる。やりながら、「これでいいのか」と自問する。割り切れないまま、やっている。
組織と踊るというのは、自分を殺すことではない。自分を活かしながら、組織の中で成果を出す方法を見つけることだ。その方法は、人によって違う。自分なりの踊り方を見つければいい。
届かない人へ
ここまで書いてきて、立ち止まる。
「組織の力学を理解しろ」「影響力を磨け」「組織と踊れ」——私はそう書いた。でも、この記事には前提条件がある。
この記事が有効なのは、以下の条件が揃っている場合だ。
- 組織がまともである——努力が報われる余地がある
- 自分にエネルギーがある——行動を起こす余力がある
- 組織で働くことを選んでいる——別の選択肢を選んでいない
この前提が成り立たない場合、この記事は役に立たない。それぞれ見ていく。
組織が合わない人がいる
そもそも、組織で働くことが向いていない人がいる。
組織の力学を理解しろと言われても、理解する気力がない。人間関係を築けと言われても、それ自体がストレスだ。会議で発言しろと言われても、声が出ない。
彼らは「能力がない」のではない。組織という形態が合わないのだ。
フリーランス、起業、小規模チーム、リモートワーク——組織以外の働き方もある。そちらが合う人もいる。
「おい、頑張るなら組織と踊れ」は、組織で働くことを前提としている。その前提自体が合わない人には、この記事は届かない。
力学を理解しても動けない人がいる
組織の力学を理解した。影響力を磨く方法も分かった。でも、動けない。
すでに消耗している人。根回しをする気力がない人。人間関係を築くエネルギーがない人。
彼らに「影響力を磨け」と言っても、無理だ。まず休む必要がある。
構造的に無理な組織もある
どんなに力学を理解しても、どんなに影響力を磨いても、無理な組織もある。
腐敗した評価制度。声の大きい人だけが勝つ文化。変える気のない経営層。
そういう組織では、個人の努力で変えられることに限界がある。「組織と踊れ」と言っても、相手がダンスをする気がないなら、成立しない。
この記事は、「組織がまともで、自分にエネルギーがある」ことを前提にしている。その前提が成り立たないなら、この記事は役に立たない。
「踊らない」という選択肢もある
「組織と踊る」ことを選ばない、という選択肢もある。
専門性だけで勝負する。政治には一切関わらない。評価されなくても気にしない。自分のペースで、自分のやり方で働く。
それは「負け」ではない。評価ゲームから意識的に降りるという戦略だ。
「おい、辞めないなら頑張れ」で書いたことを繰り返す。頑張れないなら、頑張らなくていい。降りてもいい。休んでもいい。それも、1つの選択だ。
おわりに
「おい、辞めるな」で辞めないことを選んだ。
「おい、辞めないなら頑張れ」で頑張り方を学んだ。
そして今回、「おい、頑張るなら組織と踊れ」で組織の力学を学んだ。
正直に言う。この記事を書くことには抵抗があった。「政治のやり方を教える」みたいで、気が進まなかった。
でも、過去の自分は、これを知りたかった。組織の力学を理解せず、「政治は汚い」と嫌悪しながら、壁にぶつかり続けていた。正義のエンジニアという幻想に囚われて、媚びないことと無礼を混同していた。その時間は、もったいなかった。
組織の力学を理解しろ。でも、専門性と人望が最強のカードだ。
政治に長けていても、実力がなければ長続きしない。実力があっても、組織の力学を無視していたら成果につながらない。両方必要だ。でも、長期的に見れば、専門性と人望が最も確実な道だ。
譲れないもののために、譲るものを決めろ。したたかに生きろ。
組織を敵視するな。盲従するな。組織と踊れ。
——と書いて、自分でも苦い顔をしている。
「お前も結局、体制に飲み込まれたのか」——かつての私なら、今の私をそう批判しただろう。
しかし、それでいいのだ。技術的な純粋さを追求することと、社会的な成熟を遂げることは矛盾しない。むしろ、両方を兼ね備えてこそ、プロの仕事と言えるのではないだろうか。
媚びないことと無礼の区別がつかなかった、頭の悪い反抗期は終わった。
正直に言えば、私はまだ上手に踊れていない。根回しに抵抗がある。状況認識力が弱い。会議で空気を読めない。それでも、以前よりはマシになった。壁にぶつかる回数は減った。
この記事が、かつての私のような人に届けばいいと思う。「政治は汚い」と思いながら、壁にぶつかり続けている人。組織の力学を理解することに抵抗がある人。「正義のエンジニア」という幻想に囚われている人。
理解することと、加担することは違う。理解した上で、どう振る舞うかは自分で決められる。
おい、頑張るなら組織と踊れ。踊れないなら、休め。踊り方は、自分で決めろ。
——と、ここまで書いてきた。でも、最後に付け加えておく。
組織が合わないなら、別の場所を探せばいい。それも、1つの選択だ。
私も、まだ上手に踊れていない。それでも、やっている。それでいいのだと思う。
かつての私のような若いエンジニアを見かけたら、優しく、でもはっきりと伝えたいと思う。「君の気持ちはよく分かる。でも、もっといい方法があるよ。一緒にしたたかにやっていこうぜ」と。
多分昔の私だったら「は?日和って迎合した負け犬が何言ってんの?」とか思って、心の中で見下しながら表面上は「はい、参考にします」って適当に流すんでしょうね。
まあ、それでいいんです。私も通った道だから。痛い目に遭うまで、人は変われない。私もそうだった。その時になって初めて、この言葉の意味が分かるはずです。けど大人として言う義務があるので言っておきました。