おはようございます、茅野です。
大寒波だそうですが、皆様無事でいらっしゃいますか。わたくしは引きこもって文字を書くことに決めました。
さて、先日の記事にて、日本で初めて、我らが殿下ことロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下をモデルとした小説が誕生したお話をしました。
↑ 詳細はこちらに。
それも束の間、いつも通りリサーチをしていたら、ロシア語の殿下がメインキャラクターの同人歴史小説を発掘しました。驚異の625ページ(!?)。構想から完結まで7年を費やしたそうです。恐ろしい限界同担だ!!
余りに長いので翻訳機も使いながらですが、余りに面白いので一晩で読んでしまいました。めちゃくちゃ集中していたので、気が付いたらお昼前になっていてビビり散らしましたとも。
そのままの勢いで、ファンレターまで書き送ってしまいました……。メッセージを送るためだけに、ロシア版「小説家になろう」とか「pixiv ノベル」的なサイトに会員登録までしました……。我ながら何をしているんだろう(冷静)。
粗筋とわたくしの雑感は Twitter でツリーに纏めたので、ご関心があれば辿って下さい。
「63年の査察中に政権奪取を狙っているトチ狂った反体制派の襲撃に推しが巻き込まれていたら」というifフィクション入りの歴史小説なんだけど、ジャンルがロマンスとミステリーで、犯人側の思惑を考えたり、襲撃から偶然助けてくれた恩人の女の子と軽くロマンス風味だったり、シンプルに面白かった。
— 茅野 (@a_mon_avis84) January 9, 2023
考証がしっかりしていて、章ごとに「ここまでは史実、ここからはフィクション」という解説があります。最高すぎる。
素の殿下の描写が非常に上手くて、「これ絶対史実でも言ってるだろ」みたいな解釈一致台詞が幾つもあります。凄すぎる。
とにかく驚きました……。恐らくわたくしにもブーメラン刺さるんでしょうけれど、どうして殿下ラヴァーって全員が全員筋金入りの限界オタクなのですか。界隈治安悪いと悪評が立ってしまいますよ。しかし彼はあまりに魅力的なので、我々は熱きパッションを押さえられないのである。これは致し方がない。
さて、今回は単発記事です。
「もしも殿下が暗殺未遂事件に巻き込まれていたら」という if を含んだ、大作歴史小説を目の当たりにしたわたくしは、ある事実を思い出しました。
そう、実際に彼は、1861年9月、18歳の時に、拉致計画を企てられたことがあるのです。同担が全員過激派で怖いから、マジで辞めておいた方がいいと思う。リンチされるぞ。
従って、今回は、この「殿下拉致未遂事件」について概説し、1861年晩夏の反体制派たちについて考えてみたいと思います。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
殿下拉致未遂事件
1861年9月の学生運動
1861年のロシア帝国といえば、「農奴解放令」が発布された年です。
政治が著しく動いた時期であり、デモなどの示威運動も頻発しました。
殿下のお誕生日も擁す9月、遂に学生運動が始動します。
革命組織「土地と自由」にも属していた革命家ロンギン・フョードロヴィチ・パンテレーエフの回想には、以下のような記述があります。
В один прекрасный день заявляются к Покровскому двое из сотрудников "Современника": Григ. Захар. Елисеев, которому тогда было около сорока лет, другой М. А. Антонович -- совсем молодой, но уже сильно выдвинувшийся. И вот какой вопрос они поставили Покровскому:
-- Имеете вы триста студентов, на все готовых?
-- Да, -- не колеблясь отвечал Покровский, полагая, что дело идет о какой-нибудь манифестации студентов.
-- Если так, то вот что мы вам предлагаем: надо отправиться в Царское Село, напасть на дворец и захватить наследника (Николая Александровича); затем немедленно телеграфировать царю в Ливадию: или он должен тотчас же дать конституцию, или пожертвовать наследником...
Покровский отвечал отказом; уж теперь не помню: потому ли, что все предприятие показалось ему слишком фантастическим, или не рассчитывал для выполнения его найти триста охотников между студентами. Вернее всего -- и то и другое. <...>У Ник. Ник. Страхова в "Материалах для биографии Достоевского" (в главе о студенческой истории 1861 г.) есть намек на предложение, сделанное Покровскому, Я как-то спросил Ник. Ник., откуда он это знает?
Страхов прямо отвечал: "Да мне рассказывал сам Михаил Петрович". Они были большими приятелями, когда Покровский был еще студентом, и оставались такими до самой смерти Покровского, умершего много раньше Страхова.
Раз я и Н. Утин были у Чернышевского и рассказали ему этот эпизод.
Ник. Гавр., и виду не подал, что это обстоятельство ему известно, а спокойно ответил:
-- Не удивляюсь. Ведь, несмотря на свои годы, Григорий Захарович по настроению самый юный в редакции "Современника".ある晴れた日、ポクロフスキーの元に雑誌『ソヴレメンニク(同時代人)』編集部の同僚二人がやってきた。40歳前後のグリゴーリー・ザハーロヴィチ・エリセーエフと、ごく若いながらも既に頭角を現していたマクシム・アレクセーヴィチ・アントノーヴィチである。ポクロフスキーに対する彼らの質問はこのようなものだった。
「あなたのところの300人の学生達は、みんな準備できてるんですか」。
「ええ」、何か学生デモのようなものをしたいのだろうと考えながら、ポクロフスキーは躊躇いなく首肯した。
「ならば、私達は提案したい。ツァールスコエ・セローを襲撃し、帝位継承者(ニコライ・アレクサンドロヴィチ)を拉致して、可及的速やかにリヴァディアにいる皇帝に電報を送る。直ちに憲法を公布するか、帝位継承者を犠牲にするか、どちらかだ……と」。
ポクロフスキーは拒否した。その計画が余りに荒唐無稽に思われたからなのか、学生の中からこの計画への300人もの志願者を見つけることが困難に思われたからなのか、或いは両方か―――今となってはわからない。
(中略)
ニコライ・ニコラエヴィチ・ストラーホフの『ドストエフスキーの伝記の為の資料』(1861年の学生史の章)には、このポクロフスキーへの提案に関する仄めかしがある。私はニコライ・ニコラエヴィチに、どこからこのことを知ったのか尋ねた。
ストラーホフは率直に答えた。「ああ、ミハイル・ペトローヴィチ本人が話してくれたんですよ」。
彼らはポクロフスキーの学生時代以来の親友で、ストラーホフよりもずっと前に亡くなったポクロフスキーの死まで、その友情は続いた。
一度、私とニコライ・ウーティンは、チェルヌィシェフスキーにこのエピソードについて話したことがある。ニコライ・ガヴリーロヴィチはこの計画について知らなかったにも関わらず、驚いた様子も見せずに答えた。
「驚きませんよ。グリゴーリー・ザハーロヴィチは、あの年なのに、『ソヴレメンニク』編集部では考え方が一番青かったですから」。
「殿下拉致未遂事件」です。
幸い、実行に移されることはありませんでしたが、このような計画が存在し、また検閲で揉み消されることもなく現代に残っているというのは恐ろしく、また興味深いことです。
殿下は誰をも魅了した人物ですが、流石に彼自身を知ろうともせず、苗字が「ロマノフ」だからという理由だけで死刑判決を下すような人が相手ではどうにもなりません。メデューサの如く、一度目を合わせることが肝要なのです。
憲法というのは一日二日でできるものではないのですから、荒唐無稽な計画としか言い様がありません。それに、仮に学生が300人集まったとしても、宮殿を警備する近衛連隊が敗れるとは思えません。更に言えば、後述するように、反体制派の間でも殿下を愛する人は多かったので、そもそも300人を集めるのは不可能でしょう。
しかしながら、如何に杜撰な計画であろうとも、正気を失った人が一人でもいれば、命が危険に晒されると考えると、非常に恐ろしいですね。
この頃は、テロリズムも組織的な犯行ではなく、少数の狂人によるものが主であったので、逆に対策が難しく、「何をしでかすかわからない」という恐怖は強かったかも知れません。
それにしても、圧倒的ニコライさん率。名前が意味を為していない……。
紛らわしい上、意外と多い登場人物たちについて概説して参ります。
グリゴーリー・ザハーロヴィチ・エリセーエフ
「殿下拉致未遂事件」首謀者の一人であるグリゴーリー・ザハーロヴィチ・エリセーエフは、革命家で、「土地と自由」の参加者でもあり、1866年の所謂「カラコーゾフ事件」で逮捕されています。でしょうね、って感じすぎる。

↑ 凄いお髭。1861年に40歳前後、とあるように、1821年生まれだそうです。
後半にドストエフスキーに関する記述がありますが、なんでも、エリセーエフはドストエフスキーの複数のキャラクターのモデルになっているようです。
有名どころだと、『カラマーゾフの兄弟』のラキーチン。マジでか。読み直そう……。
↑ 勿論、エリセーエフをモデルにしているといっても、どれも大分戯画的に書いているとのことです。
皇帝アレクサンドル3世がドストエフスキーのファンで、彼と文通していた事実はよく知られていますが、そんな敬愛する大作家が、「世界中の何よりも愛していた」ブラコン兄を拉致しようとした男をモデルにキャラクターを作っていたことを知っていたらなんと書き送ったか、気になる所です。
マクシム・アレクセーヴィチ・アントノーヴィチ
「殿下拉致未遂事件」のもう一人の首謀者、マクシム・アレクセーヴィチ・アントノーヴィチ。

↑ 殿下の8歳年上です。
殿下を拉致しようとしていたことからもわかるように、大変血気盛んな人物であったようで、四方八方に喧嘩を売って厳しい批判をしています。
ドストエフスキー、ネクラーソフ、トゥルゲーネフなど、偉大な作家をも紙面上で容赦無く叩きのめし、様々なトラブルに発展しています。ちょっと落ち着いてくれ。
ミハイル・ポクロフスキー
こちらの引用の主人公格、ミハイル・ペトローヴィチ・ポクロフスキーですが、恐らくは父称を間違えていて、正しくはミハイル・パーヴロヴィチ・ポクロフスキーだと思われます。同じ П (P) から始まりますからね……気持ちはわかる。

↑ めっちゃ画質悪いですが、丁度1860年代頃のお写真を見つけました。髪型が原作レンスキー(伝わらなくてもよい)。
1831年生まれなので、61年当時は30歳ですね。
この事件があった1ヶ月後の10月に逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞へ送られています。ちゃんと断ったのに!
ニコライ・ニコラエヴィチ・ストラーホフ
ドストエフスキーの伝記を書いた、ニコライ・ニコラエヴィチ・ストラーホフに関してです。

ドストエフスキーの伝記を最初に書いた人物とも言われ、事実、膨大な量の手稿が残されています。また、レフ・トルストイを早くから認め、推薦していた人物としても知られ、ロシア文学に対する優れた審美眼を持った哲学者でした。
ちなみに彼は、雑誌『ソヴレメンニク』の中心的人物且つ革命結社「土地と自由」にも多大な影響を与えていたチェルヌィシェフスキーの論敵でもありました。
パンテレーエフ、顔が広い。
ニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌィシェフスキー
19世紀ロシア帝国に関心がある方なら皆様ご存じでしょう、あのチェルヌィシェフスキーです。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ドブロリューボフ(殿下と同名同父称ですね)と並んで、19世紀中頃の文学・政治思想界を牽引した人物です。
彼らは、所謂「雑階級」のホープ的な存在で、マルクスやレーニンらも多大な影響を受けています。
↑ 最も有名な著作、『何をなすべきか』。邦訳も出てます。
雑階級のホープと称したことからも明らかなように、彼らは市民階級や農奴の権利拡張を求め、皇族や貴族を強く批判するなど、革命的な思想を持っています。
革命組織には参加せず、謂わば「裏で手を引く」ような立ち回り、及び引用した記述でも冷静な態度を見せていることから、ニヒリスティックな人物のようにも見えますが、とんでもなく活動的で、流血沙汰も辞さない派の人物でした。
1860年代に於けるチェルヌィシェフスキーの影響力は絶大で、通称「革命党の長」。当時、政府から最も警戒されていた人物でした。
殿下拉致未遂事件の翌年の1862年、チェルヌィシェフスキーは逮捕されます。
どうでもよいですが、わたくしは殿下に「沼堕ち」する前から、彼らのことが少し苦手でした。何故なら、わたくしはアレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』という作品が大層好きなのですけれども、彼らは自らの主義主張に合わせ、この作品を恣意的な読み方をするからです。
プーシキンは、「ロシア第一の詩人」であることから、このような標的にされやすいのですよね……。
ニコライ・イサーコヴィチ・ウーティン
ニコライ・イサーコヴィチ・ウーティンも革命家の一人です。父称が「イサーコヴィチ(つまり父の名前はイサーク)」であることからもわかるように、ユダヤ人です。

↑ 登場人物の中では一番の若手で、1841年生まれ。
チェルヌィシェフスキーは勿論、バクーニンやゲルツェンとも親密だったと言われています。「土地と自由」にも参加しています。
この事件の直後に逮捕され、ポクロフスキーと共にペトロパヴロフスク要塞に収容されます。
ロンギン・フョードロヴィチ・パンテレーエフ
そしてこの著者のパンテレーエフです。

↑ 1864年頃の肖像。
パンテレーエフも若く、1840年生まれです。「土地と自由」のメンバーで、肖像画が描かれた頃である1864年に一度逮捕されています。
釈放後は出版社を経営し、ドブロリューボフらの作品を出版した、とのことです。
雑誌『ソヴレメンニク(同時代人)』
ここで、雑誌『ソヴレメンニク』について概説をしておきます。
『ソヴレメンニク』は文芸雑誌で、1836年に我らがアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンが創刊しました。

↑ 1861年の『ソヴレメンニク』の表紙。
同雑誌には、創始者プーシキンは勿論、19世紀中頃を代表する文豪であるトゥルゲーネフや、殿下についての詩も多数詠んでいるチュッチェフなどの作品を掲載しており、通俗的ではない、高い文学的価値がある雑誌として高名でした。
ロシア文学は伝統的に、「権力に対抗する」という役割を持ち、声なき市民の声を具現化させるのが文学者の務めだ、という考え方がありました。
従って、最初から反体制的な側面は存在していました。
しかしながら、プーシキンらは貴族でしたし、チュッチェフやジュコーフスキーなど、ロマノフ家と親しい人物も多数寄稿していたため、初期の頃は比較的政治色が弱く、とにかく質の高いロシア文学を掲載する雑誌、という向きが強かったのです。
ところが、1850年代に入り、文芸雑誌『ソヴレメンニク』の編集部には「雑階級」の急先鋒たちが参加します。前述のドブロリューボフや、チェルヌィシェフスキーらです。
彼らはこの『ソヴレメンニク』を乗っ取るかのように、苛烈な体制批判を繰り返し、流血沙汰も辞さないとする革命的な思想を喧伝してゆきました。
元々の編集メンバーは、自由主義に傾倒している人物が多いながら、前述のように穏健な貴族たちが主だったので、旧編集者と新編集者の間に修復し難い軋轢が生まれてしまいます。
このことから、皇帝政府は雑誌『ソヴレメンニク』を「革命思想を撒き散らす、最も危険な雑誌」と認定します。
『ソヴレメンニク』の編集者の大半は逮捕され、雑誌自体、1866年に廃刊に追い込まれてしまいました。
1860年代は、恐らく近代ロシア政治史を学ぶ人々の間で最も人気のある10年間です。
近年では減っていますが、日本でもこの時代に関する学術的な研究書は多く出版されています。
「大改革」へ至るまでの道程、その功罪や影響、反発、革命的機運……などなど、いくら掘っても宝の山が尽きない時代です。
このような激動的な時代の潮流というものがありますから、『ソヴレメンニク』の趣向の転換も、致し方ないものであると言うことができると思います。
しかしながら、わたくしは個人的にプーシキンが好きなので、彼の創刊した雑誌を早々に廃刊に追い込みよって……みたいな気持ちは多少あります。正直。
1861年に於ける殿下の評価
衝撃的な「殿下拉致未遂事件」。
しかし、エリセーエフやアントノーヴィチのような超急進的な革命家は、当時ごく僅かでした。ポクロフスキーに諫められ、チェルヌィシェフスキーからも呆れられていることからもそれは明らかです。
今節では、1861年当時、殿下がどのように捉えられていたのかについての記録を確認してみます。
スヴォーリンによる言及
まず確認したいのは、若きジャーナリスト、アレクセイ・セルゲーヴィチ・スヴォーリンによる1861年8月9日の言及です。

↑ 1855年頃の若きスヴォーリン。
文芸批評家で、ロシア語とロシア史の教師でもあった、親友ミハイル・フョードロヴィチ・ド・プーレ宛てのお手紙からの抜粋です。
Государь, говорят, ходит как убитый: у него idée-fixe — страх умереть подобно Людовику XVI.
Наследник — отличная личность, и любознательная.
Он с Мельниковым (Печерским) отправился на Нижегородскую ярмарку, говорят, будет тот все ему показывать и читать лекции о народном быте. При дворе зовут его le futur roi bourgeoise. Потом он будет слушать лекции в Московском университете.皇帝は死んだ人間のようだと言われています。彼にはルイ16世のように殺されるという強迫観念があるのです。
帝位継承者は、傑出した人物で、向学心旺盛です。
彼はメリニコフ(ペチェルスキー)とニジニ・ノヴゴロドの定期市に行き、全てを見て、人々の生活についての講義を受けたといいます。
ロシア文学・政治研究者のレイボフ先生らは、こちらの評価が当時最も一般的なものに近い、と指摘します。
アレクサンドル2世は幾度もの暗殺未遂に遭い、テロリストの爆弾で殺されるので、「ルイ16世のように殺されるという強迫観念」は、あながち間違ってもいないのが怖いところです。
殿下を評すのに用いられている、「ブルジョワジーの王」というのは、フランスのルイ・フィリップ王の二つ名です。従って、「雑階級の王」とも採れるし、「将来、ルイ・フィリップのような王になるのでは」と言われているとも解釈できます。

政治家というのは誰もがそうですが、評価する人の立場によって印象が変わるものですし、功罪があるものです。従って、「ルイ・フィリップみたいって、それ褒めてんのか?」とも取れるのですが、「傑出した人だ」という文脈から続いているのだから、褒め言葉として解すのが道理でしょう。
では、どのような意味に取れるのかを考えてみましょう。
第一に、ルイ・フィリップは「フランスの王」ではなく、「フランス人民の王」として迎えられた、ということが重要です。このことから、定期市で人民の生活について学ぶ殿下を、宮殿に引きこもって近親者にしか利益をもたらさない独裁者ではなく、「ロシア人民の王(皇帝)」として迎えられるのではないか、と言っているのではないでしょうか。
第二に、ルイ・フィリップは自由主義を信奉していたことでも知られていますから、人権思想など当時としてはリベラルな思想に共感していた殿下にこの点を重ね合わせたとも考えられるでしょう。
第三に、「ブルジョワジーの王」と呼ばれていることからもわかるように、ルイ・フィリップはブルジョワジーの権利を尊重した人です。
柔軟な日本語ではカタカナ語になっていることから誤解されがちですが、「ブルジョワジー」とは「金持ち」を意味するのではなく、「アリストクラート(貴族)」ではないものの、資産を持つ、中産階級を指す言葉です。
従って、当時ロシア帝国では絶大な力を持っていた貴族階級のみならず、雑階級にも目を向ける君主になるだろうと言われている、と解釈することができます。
ちなみに、スヴォーリンはジャーナリストとして、優れた政治批評家でもありました。政治家や有力者の能力に対する激しい攻撃は辞さなかった一方で、彼らの人格否定(現代の SNS で問題になっている誹謗中傷の類い)は決してしなかった、と言われています。
そんなスヴォーリンが槍玉に挙げたのが、自らが創設した高校に殿下の名前を付けてしまった(「帝立ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子記念モスクワ高校」)カトコーフや、お馴染みのガチ恋勢親友メシチェルスキー公爵など、殿下を愛し、彼と親しかった人々だというのだから笑えます。
殿下が、特定の党派のみならず、様々な思想や階級の人々から愛されたことが伺える記述です。
少し話が逸れるのですが、1861年の殿下の査察旅行に同行したパーヴェル・イヴァーノヴィチ・メリニコフ=ペチェルスキーに関して少し書きます(メリニコフが本名で、ペチェルスキーはペンネーム)。

彼は、多才な人で、作家でもあり、政治家でもあり、宗教家でもあり、その伝記を書くには膨大な紙面が必要になる人物です。
メリニコフは、ニジニ・ノヴゴロドの生まれ育ちだったので、殿下の旅に同行し、ガイド役を務め、彼にこの地方の民話や風習について語り聞かせました。
「向学心旺盛な」殿下は、彼の話がすっかり気に入ってしまい、以下のような会話をしたといいます。
"Что бы Вам, Павел Иванович, все это написать - изобразить поверья, предания, весь быт заволжского народа".
Мельников стал уклоняться, отговариваясь "неимением времени при служебных занятиях", но Цесаревич настаивал: "Нет, непременно напишите. Я за вами буду считать в долгу повесть о том, как живут в лесах за Волгой".「パーヴェル・イヴァーノヴィチ、ザヴォールジエの人々の生活の全てや、伝説、言い伝えについてあなたがお話を書くのに、何か必要なものはありますか」。
メリニコフは「仕事が忙しくて書く時間を確保できず……」と躊躇した。
しかし皇太子は「そんな、必ずや書いて下さいね。ヴォルガの森の中での生活についての物語を読むのが、あなたに対する私の義務だと考えます」と固執した。
メリニコフは、殿下のお願いを覚えていて、10年後の1871-4年に、『森の中( В лесах )』という傑作長編小説を書き上げます(71年に第一部、74年に第二部を発表)。
世界的に人気の高い文豪も数多く擁すロシア文学ですから、埋もれてしまい、現代では知名度の低いメリニコフですが、『森の中』は人気を博し、リムスキー=コルサコフのオペラ『見えざる街キーテジと乙女フェヴローニヤの物語』の題材にもなっています。ロシアオペラ!!(※筆者はロシアオペラがとても好きです)。
下線も引きましたが、「森の中」というタイトルは、殿下の発言が元になっています。彼の発言が印象深く、そのまま使ったのだとか。
わたくしも今回調べていて初めて知ったのですが……、メリニコフ……貴殿も激烈限界同担であらせられたのか……。
しかし、1871年には既に、殿下は亡くなってしまっています。
遠方に住んでいたメリニコフの元にも殿下の葬儀の招待状が送られ、彼はそれに参加したといいます。
「絶対読むって言ってくれたのに!! 嘘つき!!」と、メリニコフも思ったことでしょう。間に合わなかった……切ない……。
クロポトキンによる言及
非常に高名な革命家、ピョートル・アレクセーヴィチ・クロポトキンは、殿下の一歳年上で、なんと少年時代は週一回殿下と数学の講義を受けていたクラスメイトでした。一緒に代数の勉強をしていたらしいです。なんだって!?

そんなクロポトキンは、拉致未遂事件前夜にあたる、1861年8月の殿下について書き残しています。
Наследник был необыкновенно красив, быть может даже слишком женствен. Он ничуть не был горд и во время выходов приятельски болтал с камер-пажами.
帝位継承者は並外れた美男子で、もしかすると女性的過ぎるというくらいの美男子だった。彼には少しも高慢なところがなく、外出の際は侍従たちと友だちのように喋っていた。
思想が相容れない革命家たちは、容姿で籠絡する。なるほど! ……、なるほど……?? それでいいのか……?
同じ革命家でこの差。流石は「近付いてくる人全てを魅了し、己に夢中にさせてしまう」美男子。面識さえあればいいのか……、メデューサか何か?
ゲルツェンによる言及
当節最後には、クロポトキンをも凌駕する19世紀ロシアの政治思想家最大のビッグネームの一人、アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ゲルツェンの言及を確認します。この記事に登場する全ての人に強い影響を与えました。

↑ 1861年のゲルツェン。
ゲルツェンは、政治思想家ですから、勿論皇族の挙動も「監視」していました。その目は勿論、帝位継承者である殿下にも向けられています。
彼は、新聞などから殿下の動きもよく追っており、日記や手紙に彼についてのメモを残すこともしばしばありました。我々が国会中継を観るような感覚でしょうか。ストーカーではないです。
先に申し上げておくと、革命家ゲルツェンは逮捕歴があってその生涯の多くを亡命先の国外で過ごしていましたし、そんな彼から褒められることは、皇帝政府の一員にとって「不名誉」なことでした。
ゲルツェンから公に賛辞を得て
従って、万人を恋に落とす殿下であっても、ゲルツェンからの賛辞を得ることは期待できません。というか、褒められていたらそれはそれで問題です。面識もないことですしね。
言及は幾つかあるのですが、恐らく最も特徴的なのが1858年11月1日に発表された、『皇后マリヤ・アレクサンドロヴナへの手紙』。殿下の母宛てのお手紙です。
結構長いので、一部を抜粋します。
<...> Бедный мальчик ваш сын! Да будь он кто-нибудь другой, нам дела не было бы до него; мы знаем, что большая часть аристократических детей у нас воспитывается очень дурно. Но ведь с его развитием связаны судьбы России,
и вот оттого-то у нас на душе тяжело, когда мы слышим, что к нему приставлен человек, который мог напечатать эти строки. <...>Государыня, спасите ваших детей от этой будущности!
(前略) 哀れな幼いあなたの息子! 彼が別の立場にあるのなら、我々は彼を気に掛けないでしょう。我が国の貴族の子女たちは、とてつもなく酷い教育を受けることを我々はよく知っています。しかし、彼の成長はロシアの運命と結びついているので、このような文章を印刷できるような人間が彼の傍にいると思うと、我々の魂は重く沈むのです。(中略)
皇后よ、あなたの子ども達をこのような未来から救って下さい!
この頃、殿下の教師の人事替えがあり、悪名高きグリムが彼の教育者になったことに対しての抗議文です。最大の政敵のはずなのになんだか過保護みたいになってて面白いですね(?)。
殿下は、自国ロシアを卑下し、ドイツを盲信するグリムのことが大層嫌いでした。当然のようにゲルツェンを嫌う皇后も皇帝も、この人事は失敗であり、発言者はともかくとして、この点に関しては彼の意見が正しいと認めています。
そもそも、グリムを殿下の教育者に抜擢したのは皇太后と皇帝の弟コンスタンティン大公で、皇后は元より反対の立場でした。彼らは20年前のグリムを知っていて、その頃は善良で愛国者であったため彼を起用したものの、長年のドイツ生活で全くの別人になってしまっていたことを知らなかったのでした。約一年後、グリムは満場一致で宮廷から追放されます。
国外から新聞などを読むだけで、宮廷の事情には詳しくなかったゲルツェンらしいとも言える書簡です。
殿下は、ゲルツェンからは褒められないまでも個人的な攻撃は受けていません。一方、1865年4月末、殿下の死に関する書簡には……。
А смерть наследника?
А кретинизм его брата?だが、帝位継承者の死は?
彼の弟は痴呆だという話じゃないか?
言い過ぎなんだよな、ほんとに。今に始まったことじゃないんですが。痴呆て。
また、殿下の死に際しては、皇帝に対する声明で、
Между нами, противниками вашей власти, не найдется ни одного бездушного негодяя, который проводил бы гроб вашего сына обидой, который хотел бы сорвать траур с матери или сестры, отнять тело у родителей и могилу у слез...
あなたの権力に反対する私達の間には、誰一人として、あなたの息子の棺を侮辱する者、母や妹の喪を妨害したいと望む者、両親から遺体を、墓から涙を奪い去ろうとする無情な碌でなしは存在しません……。
と書いています。事実、殿下の葬儀に際しては一切の暴動や混乱が見られなかったことは同時代人によって複数証言されていますが、これは非常に希有なことです。
尤も、この声明では、この後、「しかしあなたがた政府はポーランド人に対してこれらのことをやっていますよね?」と、政権批判のダシに使われているので、何ともなのですが……。
最後に、奇妙な運命についての一節をご覧に入れたいと思います。1868年5月2日に、ゲルツェンが親友のニコライ・プラトーノヴィチ・オガリョーフに送った手紙です。
Шестнадцать лет тому назад здесь — в ста шагах — скончалась Natalie. Вчера я с Лизой шел недалеко от того дома и теперь только заметил, что наследник умер возле. Что за странная случайность.
С тех-то пор и пошла жизнь неправильно. Вера в нее и в себя были потрясены...
16年前、ここで―――100歩も離れていないところで―――ナタリーが亡くなった。昨日、リーザとこの屋敷の周りを歩いていると、ふと帝位継承者がすぐ傍で死んだのだということに気が付いた。なんという奇妙な偶然だろう。
その時から人生は上手くいかなくなった。彼女のことも、自分のことも信じられなくなってしまった……。
ナタリーとは、ゲルツェンの妻のことです。彼女は不倫をした後に亡くなったので、「信じる」云々という話になっているのでしょう。
リーザは娘のエリザヴェータを指すと思われます。
ゲルツェンはニース滞在も長く(殿下の死の時期とは被っていないのですが)、墓もニースにあります。
ゲルツェンの妻が亡くなった屋敷は、殿下が亡くなったベルモン荘のごく近所にあったようです。
19世紀ロシアの革命家の中でも最も有名な一人であるゲルツェンの妻と、帝位継承者である殿下がごく近くで亡くなった事実、確かに奇妙な偶然です。
細かいですが、ナタリーは「亡くなった( скончалась )」と丁寧な言い回しになっているのに対し、殿下の方は「死んだ( умер )」となっているのが、実に殿下とは面識の無い反体制派ゲルツェンらしいです。そんな風に書くのはあなただけだよ。
殿下と皇帝の親子関係
スヴォーリンによる言及で、「皇帝は暗殺を恐れ、死んだようになっている」という興味深い指摘があります。最後に、この点に関して少し考えてみたいと思います。
ご承知の通り、(今回は反体制派特集でしたが)、殿下は誰からも愛された超人的な人物です。
「誰もが彼が帝位に就くのを待っていた」―――これは当時から見られる表現です。
しかし、考えてみてください。帝国には、少なくとも一人だけは必ず、「殿下が帝位に就くことを望まない人物」がいるはずです。
その唯一の人物、それこそ正に、彼の父、皇帝アレクサンドル2世です。
現代日本とは異なり、生前退位という概念がなかったロシア帝国。「帝位継承者である殿下が帝位に就く」ということは即ち、「現皇帝であるアレクサンドル2世が死ぬ」ということを意味していました。
つまり、父皇帝にとっては、殿下が愛されれば愛されるほど、帝位に就くことを望まれれば望まれるほど、「早く死ね」と言われているように感じたわけです。
勿論、次世代が優秀であることは喜ばしいことです。皇帝も、己の息子が国民から愛されることを喜びましたし、彼自身息子を愛していました。
しかし、非凡な愛息の尋常ならざる人望の厚さは、いつしか皇帝の心に引っ掛かりを作るようになりました。
殿下の恋敵友人でもあるシェレメチェフ伯は、「皇帝は嫉妬深い性格であり、息子のニコライ・アレクサンドロヴィチにさえその矛先を向けていた」と証言しています。
あまりに常人離れしている為に、周囲に嫉妬すら抱かせない殿下ですが、唯一その感情を抱いたのは、己の父だというのだから皮肉な話です。人口1億人の主レベルでないと、殿下には嫉妬心を抱けないということか……。
また、この頃、皇帝とその弟のコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公との関係が悪化したことも、殿下との親子関係に陰を落としていました。
「兄弟関係と親子関係に何の関係が?」と思われそうですが、殿下はその壮絶な兄弟喧嘩に巻き込まれてしまったのです。可哀想。
コンスタンティン大公は、頭の切れる人物で、自分は兄よりも優秀であると自負しており、兄の能力を信用していませんでした。「自分ならばよりよくロシアを治められる」と考え、皇帝になりたいという望みさえ抱きました。
しかしながら、厳格な父ニコライ1世に「お前が皇帝になることはない」と断言されてしまいます。「血の皇帝」に楯突こうものなら息子といえど流血沙汰は避けられませんので、彼は引き下がりました。
そんな中、兄が息子を授かります。彼は才能豊かに成長してゆくではありませんか。
大公は、そんな若き甥に惚れ込み、「完成の極致」と呼び、溺愛するようになってゆきます。彼が皇帝になるのならば、もう自分は皇帝になるなんて望みは完全に捨て去ろう。彼を傍で支えるだけで十分だ……。
甥が11歳になった頃、父である皇帝ニコライ1世が崩御します。父を埋葬するとき、大公の脳裏に、恐ろしい考えが過ぎったのかもしれません。
「今、兄が死ねば、"完成の極致" ニクサが皇帝になる。彼は優秀だが、未だ幼く、成人していない。つまり、彼が16になるまでは、帝位継承法に従い、俺は摂政になれる」―――。
兄弟関係は更に悪化し、叔父は殊更甥を可愛がるようになります。反体制派のみならず、宮廷の中にも「敵」は存在していました。
そして1861年、「大改革」最大の施策として、農奴解放令を発布しますが、不十分な内容であるそれは、民衆の不満を引き起こしました。
皇帝は、この時点で既に精神が荒廃していたのかもしれません。
殿下は、「理想的な帝位継承者」を演じる名優でした。
特に同年代のシェレメチェフ伯やメシチェルスキー公らが証言しているように、「彼は余り他人を信用せず、滅多に本音を漏らすことはなく、本来は複雑な性格で、何を考えているのかよくわからない」謎めいた人物です。
彼が腹を割って話したのは弟のアレクサンドル大公に対してのみで、父の前でも「理想的な帝位継承者」であり続けました。皇帝はそんな振る舞いが可能な息子に殊更嫉妬したでしょうか。
父と子の文通を読むと、如何に相互理解ができていなかったかが浮き彫りになります。
厳しい父として、皇帝として、そして一抹の嫉妬心から、クロポトキンらも指摘していた殿下の中性的な容姿を攻撃し、過度な軍事演習を課して、八つ当たり的に辛く当たってしまった側面は大いにありそうです。その結果はご承知の通り。
皇帝には、長男に厳しくしすぎたという自覚はあったらしく、その死後に強い自責の念に苦しめられたといいます。
皇帝に対する最初の暗殺未遂が1866年であったのに対し、殿下の拉致未遂事件が1861年と5年も前に発生していることは極めて示唆的です。勿論、それは殿下が余りにも早く亡くなってしまうから、ということもありますが……。
皇帝よりも殿下が狙われたということは、逆説的に、それだけ、殿下の命は「価値がある」と捉えられていたのでしょう。
反体制派にとっても、皇帝政府同様に、殿下の存在は大きいものだったのかもしれません。
最後に
通読ありがとうございました!! 気軽に単発を書くつもりが、何故か力作になってしまい、気が付けば17000字……。恐ろしい。
はてなブログは1万字を越えると重くなるので、今非常に書きづらいです。書きすぎなのか……。
前々からリサーチしていたことを言語化できてスッキリしました。やはり成果物として纏めておくのが良いですよね。
他にも興味深すぎる事件が色々ありますので、沢山文字書きできれば良いなと思います。連載も続きを書かねば……。
それでは、今回はここでお開きと致します! 長々とありがとうございました。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです。