
東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。
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今回お話を伺ったのは、ミュージシャンのCharさん。8歳でギターを手にし、10代からスタジオ・ミュージシャン(編注:音楽スタジオでのレコード、CDなどの作成やステージサポートのため、楽器演奏を行うミュージシャン)などバックギタリストとして活動を開始。以来、日本を代表する偉大なギタリストとして、数十年にわたってリスペクトを受け続けています。
そんなCharさんの地元は東京都品川区の戸越銀座。実家は戸越銀座商店街から路地を一歩入った坂道にあり、常に多くの人々が往来するにぎやかな環境のなかで育ちました。現在も実家の建物に自身の音楽レーベル「ZICCA RECORDS」を構えるなど、地元を拠点に活動を続けています。
Charさんはなぜ、戸越銀座に住み続けるのでしょうか。離れ難いその魅力や、子どものころから現在までの商店街の変化、さらに、ギターと出合いロックに夢中になった10代のころの思い出などを語っていただきました。
商店街のにぎわいと町工場の爆音
── 現在、音楽事務所兼スタジオとして使われているこちらの建物は、もともとCharさんのご実家だったそうですね。

Charさん(以下、Char) そう。母が眼科と耳鼻咽喉科の医者で、自宅で「竹中医院」を開いてた。このへんの小学校と中学校の予防接種もここでやっててね。うちの母は、界隈の子どもたちから「二丁目の鬼ババ」って恐れられてたよ(笑)。子どもが学校をサボるために仮病を使おうとしても、親から「じゃあ、竹中先生のところに行くよ」って言われた途端に治っちゃう。それくらい怖かったみたい。
── ここから坂を少し下ると戸越銀座商店街です。60年前、Char さんが子どものころの商店街は、どんな雰囲気だったのでしょうか?
Char 昭和30年代の商店街は、かっぽう着姿のお母さんたちであふれかえってた。今みたいにフランチャイズは入ってなくて、飲食店も少なかった。要するに、毎日の食材を買いに来る商店街だったんだよね。ただ、夕方になると酒店が酒場になって、仕事帰りのお父さんたちが飲んでたよ。商店街で買った焼き鳥やコロッケをつまみにしてさ。
まあ、いろんな意味で活気があったよね。当時はテレビが家庭に普及してなかったから、電気店のテレビの前にたむろして相撲中継を見たりしてた。そしたら、その横でバナナのたたき売りが始まるんだよ。
── にぎやかな光景が目に浮かびます。
Char 商店街の周りもにぎやかだったよ。というか、やかましかった。この辺りは準工業地帯だったから、実家の周辺だけでも町工場が20軒くらいあってさ。ガシャンガシャンっていう機械の音と、それに負けないくらいのフルボリュームでトランジスタラジオを流してた。おまけに、夏は暑いから工場の窓は開けっぱなし。あちこちから、ものすごいノイズが鳴り響いてたよ。今は、法律だか条例だかで、ほとんどの工場は移転しちゃったけどね。
── にぎやかといえば、子どももすごく多かったみたいですね。
Char そうだね。すぐそこの路地がガキどものたまり場でさ、メンコしたり、かくれんぼしたり。あとは、空き地で野球したり、紙芝居のおやじがやってきたり。で、夕方になるとみんなで銭湯「中の湯」(現:戸越銀座温泉)に集まるんだよ。そのころは家に風呂がない同級生もいっぱいいたから、夕方からそれぞれ家を抜け出して銭湯巡りが始まる。ある意味、憩いの場だったな。
商店街のお店でよく行ったのは、駄菓子屋と貸本屋。いつも、10年玉を握りしめた子どもたちが集まってた。50円なんて持ってたら大金持ち扱いだったよね。
小学生にして、ギターとロックのとりこに
── Charさんが初めてギターに触れたのはいつだったのでしょうか?

Char 最初は8歳のときだね。母が集めてたスタンプで交換できる商品のなかに、国産のエレキギターがあってさ。5歳上の兄貴が「チャーと一緒に使うから、これにしたい」って。でも、実際に俺が触ろうとするとすごいけんまくで怒るんだよ。「このうそつきが」って思ったけど圧倒的な力の差があるから逆らえなかった。まあ、兄貴の目を盗んで触ってたけどね。ベンチャーズのコピーを弾いたりして。
音楽好きの兄貴のおかげで、小さいころからたくさんのレコードを聴くことができたのは幸運だったと思う。俺にはレコードやプレーヤーを触らせてくれなかったけど、部屋が一緒だから兄貴がかける洋楽を横でずっと聴いていられる。彼は歌謡曲やフォークにはいかず、ローリング・ストーンズやビートルズを好んでたから、俺も小学生ながら耳年増になってさ。そういう意味では、兄貴のおかげで今の俺があるといっても過言じゃないかもしれない。
── 自分だけのギターはいつ手に入れましたか?
Char 兄貴が二代目のエレキを手に入れたときに、最初のやつをお古でもらった。本物のエレキを見たことないやつがつくったようなデタラメな代物で、音もしょぼかったけど、一応それがルーツ。今でも持ってるよ。
ただ、やっぱり音に満足できなかったから、お小遣いの200円で中古のフォークギターを買って、それにエレキの弦を張って練習してた。もちろんアンプなんて持ってないから、近所のおじさんが持ってきてくれたテープレコーダーにつなげて、そのスピーカーから音を出して。それからはもう、1日中ずっと弾いてた。寝る直前にやっとギターを置いて、何かを触ったときにバチン!って静電気がきてさ。体の中に帯電してたんだね。当時、エレキサウンドは「しびれる」って表現されてたんだけど、文字どおりしびれるんだって思ったよ。
── そこから、どんどんギターとロックにのめり込んでいったと。
Char そうそう。でもさ、当時はロックやってるなんて言うと、後ろ指をさされるような時代だった。エレキをやったり、バンドを組んで髪を伸ばしたりするのは不良の入口で、暴走族に入るのとあまり変わらないみたいな風潮があったんだよ。しかも、うちの母は地元で有名だったから、「竹中先生のとこのバカ息子がバンド始めたらしい」みたいな感じだったね。
── ただ、お母さんは反対しなかったんですよね。
Char うん。母は「自分の好きなことをやれ」と言ってくれて、俺にとって本当によき理解者だった。思えば、俺が子どものころにピアノを習い始めたのも母の意見だったし、この場所に「ZICCA RECORDS」をつくったのも、じつは母の提案だったんだよ。「あんた、私が死んだらここで音楽事務所やんなさい。今は六本木だの青山だの原宿だのに事務所を持つ時代じゃないのよ」って。改めて振り返ると、母はずっと俺の背中を押してくれたんだなって思うよ。とはいえ、まさか実家でロックの音楽事務所を開くなんて、まったく想像してなかったけどね。
グループサウンズに憧れ、思いはいつしかロックの本場へ
── 将来、音楽の道で生きていきたいと思うようになったのは、いつごろからですか?

Char 漠然とだけど、中学のころには音楽で食っていきたいと思ってたかな。当時は和製ロックバンドの、いわゆる「グループ・サウンズ(以下、GS)」が流行って、「ザ・タイガース」とか「ザ・テンプターズ」とか、いろんな“○○ズ”が毎日のようにテレビに出ててさ。
銀座に「ACB(アシベ)」っていうGSが出演するジャズ喫茶があったんだけど、昼の部は子どもでも入れたから、俺もよく行ってた。テレビではやらない洋楽のカバーを演奏してて、楽しかったね。ACBでオーディションをやってると聞いて、小学校の同級生とつくったバンドで受けに行ったこともある。「生意気だ」って言われたけどね。
── GSに憧れて、自分もステージに立ちたいと。
Char だけどね、あんなに毎日テレビに出ていたGSが、あるときから急にいなくなっちゃうのよ。おやじがよく「こんなものははやり廃りだから、そのうち必ずいなくなるぞ」って言ってたんだけど、本当にそのとおりになっちゃった。そのときは小学生ながら、プロになるのは厳しいのかな、考えないほうがいいのかなって思ったね。
俺にとって転換期になったのは、1969年の「ウッドストック・フェスティバル」。アメリカの大規模な野外コンサートで、当時はテレビ中継もラジオ中継もなかったけど、翌年にドキュメンタリー映画が世界で公開されてさ。それを映画館で見たときに、ものすごくショックを受けた。だって、日本じゃGSが下降してるのに、アメリカやイギリスのロックは右肩上がりなんだから。それからは、「本当にプロになりたいなら、日本にいちゃダメなんだ」って思うようになった。
当時、渋谷に城南地区のロック少女、ロック少年たちのたまり場があってさ。原宿の竹下通りに洋楽レコードをそろえた「メロディハウス」や、渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)に今も営業しているロック喫茶「B.Y.G」があって、俺もよく渋谷には行ってたよ。
そこには帰国子女とか、何度も海外に行っているやつもいた。そいつらから「どこそこの店でクラプトンが酒飲んでた」みたいな話を聞くわけ。そしたら、どんどん妄想が膨らんじゃうの。あのころはずっと「俺も早く海を渡りたい!」って思ってたね。
── 「海外の音楽を学びたい」とか、「向こうでデビューしたい」といった思いがあったのでしょうか?
Char いや、まずは知りたかったんだよね。なぜ、ロンドンからはストーンズやビートルズが生まれるのかって。日本にいても全然わからないけど、現地の文化や音をこの身で体感すれば納得できるんじゃないかと思って。
── でも、当時はまだ高校生。単身で海外へ行くのは難しいですよね。
Char そうだね。そのころのロンドンとかって、今とは違って「違う星」かってくらい遠いイメージだった。地球の裏側どころじゃなくて、ロケットに乗って太陽系の違う惑星に行くくらいの感覚。母にも「命懸けで行く気はあるのか?」みたいなことを言われたしね。
でも、準備だけはしてた。必死でギターを練習して、自分なりに英語も勉強して。東京でも放送してた「FEN(Far East Network)」っていうアメリカ軍のラジオを毎晩聴いたり、そこでかかってる最先端の洋楽をカセットに録音して、何て歌ってるのか解読したりしてたね。いつか本当に行く日のために、語学もスキルも情報も、海外仕様にしておこうって。
バックミュージシャンとして引く手数多、16歳の天才ギタリスト
── それと並行して、高校に行きながらスタジオ・ミュージシャンの仕事もしていたそうですね。

Char 16歳のときに、ひょんなきっかけからやることになったんだけど、当時は俺みたいなタイプのスタジオ・ミュージシャンって珍しかったんだよ。ひとつ上の世代のギタリストはジャズ出身の人ばっかりで、「ロックっぽいアレンジで頼むよ」とか言われても全く弾けない。かといって、ロックをやってるギタリストは譜面も読めないし、そもそも時間どおりにスタジオに来ないわけ。前金だけ受け取って二度と顔を出さない、なんて人も多かった。
俺はピアノをやってたから譜面が読めて、ロックも弾ける。ありとあらゆるギタリストの音を耳コピしてたから、「誰々風に弾いてみて」とか言われても対応できた。だから重宝されてね。そのころはGSブームが去った後にフォークブームが来ていて、本当はロックをやりたかったフォークシンガーの人たちのレコーディングを随分と手伝ったよ。
── 高校生にして、大人に混じって「仕事」をしていたんですね。
Char うん。なかなか俺みたいなのはいないから面白がられて、いろんなところに連れていかれたよ。たまに大人の世界も覗かせてもらったり。あとは、その人たちがテレビに出るときは、学校をサボってバックで演奏した。テレビに映って学校にバレて、自主退学を迫られたりもしたけど。
結局、21歳でデビューするまでの数年間、いろんなミュージシャンの裏方として働かせてもらった。そこでお金をためて、うんと良いギターを買って、海外に行こうと思ってたね。
── ちなみに、音楽の道へ進むことをお母さんは応援してくれていたということですが、お父さんはどうだったのでしょうか?
Char おやじは俺がギターをやることすら大反対だった。だから、仕事に行くときはいつもおやじに見つからないよう、2階の部屋の窓から屋根伝いに出て行ってたよ。
ある日、新宿のスタジオで仕事を終えて屋根伝いに部屋へ戻ろうとしたら、おやじと兄貴の言い争いが聞こえてきてね。なんか、俺のことでもめてるの。そのときに兄貴がさ、おやじに向かって「チャーは才能があるんだから、(音楽を)やらせてやれ!」って言ってて。驚いたよ。あの怖くて陰険な兄貴がね、じつは一番理解してくれていたっていう。
── その後、18歳で念願のロンドンの地を踏みます。どんな印象を持ちましたか?
Char ヒースロー空港を降りたときにびっくりしたのは、街並みの古さ。建物なんて、ビクトリア期のまま全く変わっていないように感じられた。俺の海外のイメージって、テレビで観てたアメリカの『奥様は魔女』とか『ザ・ルーシー・ショー』の世界だったんだよね。外国はどこもあんな感じだと思ってたけど、ロンドンは全然違った。
正直、そのときは地元と違って「閉鎖的な街だな」って思った。こんな、何百年も街並みが変わらないようなところから、なんでビートルズとか、ツイッギーとかが生まれたのか、ますますわからなくなっちゃってね。納得するために日本を出たのに、帰国するころには悩みがより深くなってたよ。
戸越銀座は住めば住むほど楽しくなる街

── 日本に帰国してからは、ずっと東京ですか?
Char そう。ずっと戸越銀座だよ。ほかの街に住んでみたいと思ったこともあるけど、俺はどうやら「平らな土地」がダメなんだよね。ガキのころからずっと丘だったり坂があるところに住んでたから、アップダウンがある場所じゃないと落ち着かないみたい。
あと、なんだかんだいって、やっぱりここって便利なんだよ。羽田空港も東京駅も品川駅も近くて、旅が多いこの仕事には抜群の立地だしさ。それに、商店街には高価なもの以外、なんでもあるからね。この便利さに慣れちゃうと、なかなか引っ越す気になれない。
ただ、俺の奥さんはアメリカ人だから、最初は商店街のシステムに戸惑ってたよ。アメリカは全部まとめてスーパーで買うから、肉は肉屋、野菜は八百屋でってバラバラに回らなきゃいけないのがストレスだって。今は商店街を気に入っているみたいだけどね。
── Charさんが子どものころに比べて商店街も変わったと思いますが、そうした変化についてはどう捉えていますか?
Char 確かに、昔は商店街の端から端までにぎわっていたけど、今は一部区間でシャッターが閉まったままの建物も増えたよね。
でも、頑張って持ちこたえてきたと思うよ。かっぽう着姿の地元のお母さんたちは減ったけど、そのぶん観光客だったり、外から食べ歩きに来る人が増えた。メディアでも毎週のように戸越銀座商店街が紹介されているし、土日の人出なんかすごいから。
だから、今はもうヘタな格好で近所をウロウロできなくなったよね。昔はさ、どうせ地元の人しかいないし、夏なんてパンツ一丁で出歩いてた。靴を履くのめんどうだから、裸足でゴム草履買いに行ったりしてさ。今は、とてもそんなことできる商店街ではなくなっちゃったね。テレビカメラもよく来るから、「チャーがパンイチで歩いてた」ところなんて撮られたら恥ずかしいし。
── 商店街のお店の代替わりも、うまく進んでいるのでしょうか?
Char もちろん、後継ぎがいなくて閉めちゃった店もたくさんあるよ。でも、今の地元の若い連中は、商店街に愛着をもっているやつらが多いみたい。俺の息子もそう。彼は地元の小学校じゃなくてアメリカンスクールに通っていたんだけど、俺なんかよりよっぽど地元愛があると思うし、地域の同世代の連中との横のつながりも妙に強くてね。みんなで商店街の火を守ろうとしてくれてる。新しい店も、けっこう増えたよ。
ちなみに、うちの近所にも知り合いの子どもたちがやってる店がいくつかあって、俺もほぼ毎晩どこかしらで飲んでるよ。世代を問わず、ありとあらゆるバカどもが集まる店で、すげえ面白い。俺みたいな70近いやつもいれば、もっと上の先輩方もいる。かと思えば若い夫婦も来るから、いろんな情報が集まるわけ。あいつに孫が生まれたとか、離婚したとか、誰々が病気になったとか。まあ、最近は「チャーちゃん、あいつ死んじゃったよ」みたいな話も増えてきたけど。何にせよ、いろんな世代とコミュニケーションがとれる場所があるのはいいよね。俺もたまに若いやつらに携帯の使い方を教わったりしてるよ。
── Charさんにとって、本当に居心地の良い街なんだなというのが伝わってきます。
Char そうだね。住めば住むほど知り合いも増えるし、俺にとってどんどん楽しい街になってる。もう、引っ越す理由が完全になくなっちゃったな。
それに、俺のことをガキのころから知ってる年寄りもいまだに健在で、顔を合わせりゃ「チャーちゃん、こないだテレビで見たわよ」って声かけてくれる。まあ、そのあと必ず「もうかってんでしょ?」って続くんだけどさ。
ここに住み続けていなければ、そういうジイさん、バアさんたちと言葉を交わすこともなかっただろうね。マンション住まいで、他人とろくにかかわらずに生きてたんじゃないかな。
最近はつくづく戸越銀座は俺にとっての“イナカ”なんだなって思う。こんなに派手な商店街だけど、俺にとっては一番落ち着ける場所。若いころは、この街をそんなふうに味わえるようになるなんて、全く想像できなかったけどね。
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お話を伺った人:Char(ちゃー)

1955年6月16日東京生まれ。本名・竹中尚人 (たけなか ひさと)。ZICCA REDORDS 主宰。8歳でギターをはじめ、10代からバックギタリストのキャリアを重ねる。1976年『Navy Blue』でデビュー以降、『Smoky』『気絶するほど悩ましい』『闘牛士』等を発表。Johnny, Louis & Char 結成翌年、1979年に日比谷大野外音楽堂にてフリーコンサート「Free Spirit」を行う。1988年 江戸屋設立以降、ソロと並行して、Psychedelix、BAHO での活動を行う。2009年にはWEB通販主体レーベル「ZICCA RECORDS」を設立し、TRADROCK シリーズを発表。2015年5月、還暦アニヴァーサリーアルバム『ROCK 十』を発表。2016年、ギターマガジン誌による、プロギタリストを中心とした音楽関係者へのアンケート投票「ニッポンの偉大なギタリスト100」にて1位に選ばれる。2018年、Fender Custom Shop にて日本人初のプロファイルドモデルを発表、オリジナル楽器ブランドZICCA AX にて、様々なオリジナル楽器アイテムを展開中。2020年、ギターマガジン誌投票「ニッポンの偉大なギター名盤」にて、1stアルバム「Char」が一位に選ばれる。2021年9月、16年ぶりのオリジナルアルバム「Fret to Fret」を発表。12月にはデビュー45周年武道館公演を開催。2022年4月、同公演の映像作品を発売。
オフィシャルサイト: https://www.zicca.net/
聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter: @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト
編集・風景写真:はてな編集部
