以下の内容はhttps://suumo.jp/town/entry/asagaya-iimura/より取得しました。


家にいたくない夜にいられる街、阿佐ヶ谷|文・飯村大樹(ブックデザイナー)

著: 飯村大樹
東京の街に自発的に来るようになったのは大学4年生のときだった。
当時、私は遠距離恋愛をしていた。名古屋の大学に通っていたので、東京近郊に住んでいた相手のところまで月に1回か2回、片道6時間かけて高速バスで通っていた。
それまでは、私の地元である水戸市の高校の遠足くらいでしか来たことがなかったので、東京という街をちゃんと知るのはそれが初めてのことだった。
中野や高円寺に吉祥寺。彼女に案内してもらいながら色んな場所を歩いた。東京は歩いているだけでなんとも楽しい街だった。彼女は漫画や映画、音楽といったカルチャー全般に詳しい人で、そういう文化的なものにゆかりのある場所をよく歩いていた覚えがある。

彼女に教えてもらった中でも、当時『ハルタ』(KADOKAWA)で連載していた『A子さんの恋人』(近藤聡乃)という漫画がすぐに好きになった。主人公のA子さんと元彼のA太郎、今の恋人のAくんの三つ巴の人間関係を主軸に描いた作品なのだけれど、このA子さんが住んでいるのが阿佐ヶ谷だった。
作中では具体的な地名や店の名前がたくさん描かれる。阿佐ヶ谷で言うと、喫茶店「gion」にジェラート屋「SINCERITA(シンチェリータ)」、それにバー「roji」。さらりと紹介されるお店の数々がすごく都会的に見えて、私は東京の中でも特に阿佐ヶ谷に憧れを抱くようになった。

そんな生活をしていたので、やはりというべきか、就職は東京に決まった。そして、引越し先にはもちろん阿佐ヶ谷を選んだ。
初めて自分のお金で借りた家は、六畳一間にちょこんとしたキッチンがついた、こぢんまりとした部屋だった。家賃は5万5千円。古いアパートをリノベーションしたような部屋だ。

部屋の壁はなぜかペンキでまっ白に塗られていて、友達からは「頭がおかしくなる部屋」と評された。それでも私にとっては初めて自分のお金で借りた、自分だけの部屋だった。もう、それだけですごく誇らしかった。

前の家から持ってきたベッドとデスク、本棚を置くと、部屋の中はすぐにいっぱいになってしまったが、それでもなんとか自分らしくしたいと部屋をあしらった。まっ白い壁はポストカードやポスターを貼るにはうってつけだったし、小さいテーブルには花を飾った。
ここにあるものはすべて、私が自分の力で得たものなのだ。そう思うと、自分の人生を自由に生きているという実感が湧いてきた。それは何にも代えがたい喜びだった。

部屋をすごく気に入っていた一方で、どうしても家にいたくなく、街に身を置きたい夜もあった。例えば、金曜日に思いがけず仕事が早く終わった日や、なんとなく会社で嫌なことばかりが続いた日。あるいは、秋の終わりに寂しい風が吹いている日。
そういうときに家に一人でいると、もったいなかったり、考え事をしてしまったりする。モヤモヤしてくると、私は部屋を飛び出して、阿佐ヶ谷の街で時間を過ごしたのだった。


阿佐ヶ谷には夜遅くまで営業している店が多かったが、中でも『A子さんの恋人』にも出てきた「gion」という喫茶店が私の駆け込み寺で、第二の家のように思っていた。

空いていると「どこでもどうぞ」と言われるので、カウンター席に座ることが多かった。椅子は重たい木でできていて、まるで山奥の木こりの家に招かれたような気持ちになる。腰掛けると、すぐに店員さんがメニューと水とおしぼりを持ってきてくれる。メニューは手書きの文字と写真を組み合わせて作られており、クラフト感があってすこぶるかわいい。

フードも含めてメニューが豊富なのもgionの魅力だ。ついつい迷ってしまって、はじめのうちは選ぶのに時間がかかった。今では何を頼むか決めていることも多く、基本的にはブレンドのホットコーヒーを頼み(ミルクあり)、甘いのが飲みたいときにはいちごジュース、お腹が空いているときにはナポリタンを食べる。

ところで、gionのナポリタンは本当にすばらしい。ちょっと解説すると、大きめのお皿の手前には主役のナポリタンが鎮座し、麺はややお焦げがつくほどしっかりと炒められている。中太麺にしっかりと絡みついたトマトソースの味は奥深い。一口食べると、もっともっととかきこみたくなるような食欲をそそる味だ。
奥にはドレッシングがかかったサラダがこんもりと、まるでちょっとした丘のように盛られており、その右手に視線を移すと、今度はたまごサラダがかわいくちょこんと添えられている。

この3つを交互に食べていくのが楽しくて、夢中で食べてしまう。私の人生ベストナポリタンだ。

家にいたくないときに駆け込む場所として、もう一つ挙げるとしたら「八重洲ブックセンター 阿佐ヶ谷店」だろう。
私が住んでいたころは「書楽」という書店が営業していたが、2024年に閉店してしまい、今は同じ場所で八重洲ブックセンターが営業している。書楽を「しょがく」と読むのか「しょらく」と読むのかは最後まで分からなかった。名前は変わったが店内の雰囲気はさほど変わらず、いつ行っても居心地がいい本屋だ。

店内に入ると両脇は雑誌の棚で、直進すると正面には話題書や新刊の島がある。ここには常にフレッシュな本が並んでいて、正面から左手に回ると純文学やエンタメ、人文や経済の本が置かれている。阿佐ヶ谷にちなんだ本も多く置かれているのが印象的だ。
私がいつも楽しみにしているのは、さらにその裏側のスペースで、ここでは出版社のフェアやフェミニズムなど特定の分野を扱った選書が多い。ある程度の期間が経つとガラッと入れ替わるので、訪れるたびにのぞきに行くことにしている。

また、八重洲ブックセンターはコミック棚が充実している。どういうわけか、このお店のコミックエリアは数段床が高くなっていてちょっと特別感がある。私の持っている漫画の多くはここで買ったもので、谷口菜津子さんも衿沢世衣子さんもpanpanyaさんも、みんなここのコミック棚に教えてもらった。
コミックエリアの壁にはたくさんのサイン色紙などが飾られており、その中には『A子さんの恋人』の漫画原稿もある。そこを通るだけで、いつも新鮮な喜びを感じてしまう。『A子さんの恋人』は私にとって都会的な東京のシンボルなのだ。原稿を眺めているだけで、憧れていた漫画の世界に入りこめたようでうれしくなった。


ご飯を食べて、本も買った。そろそろ疲れてきたなと思ったら、銭湯でひとっ風呂浴びるのがよい。私がよく通っていたのは「玉の湯」という銭湯だ。青い瓦屋根に、磨りガラスで描かれた「玉の湯」の文字とブロックガラス、それにオレンジの光を放っている丸い電灯がどこか懐かしい気持ちにさせてくれる。

お金を払って、脱衣所でパパッと服を脱いでから洗い場に入る。すると目の前にはどーんと大きな富士山の絵が広がっている。
他の銭湯にも富士山の絵は描かれているが、玉の湯の富士山は爽やかな感じがたいへん好ましい。富士山の手前には海、奥には青空。青々と描かれた大きい絵を眺めているだけで心まで洗われるようだ。男女を隔てる壁には、なぜかイルカが海を泳いでいるイラストが描かれており、それにも心が和む。

お湯はジェットバスが2つと電気風呂、薬湯と水風呂がある。入ったことはないけれどサウナもあるようだった。
まずはジェットバスで熱い湯にバーっと身を委ねてから、薬湯の少しぬるいお湯に浸かって壁の絵を鑑賞するのが私のおすすめだ。

風呂上がりのよく晴れた夜はすばらしい。身体はぽかぽかとして、吹いてくる風は涼やかだ。長い夜の〆として、最後に短い散歩をすることもあった。玉の湯で買った飲み物を片手にゆっくりと街を歩く。

阿佐ヶ谷には「中杉通り」という道が南北に伸びていて、そこを歩くのが好きだった。この道は歩道がそこまで広くなく、歩きやすいとは言えないのだけれど、両端に大きな緑葉樹が植えられている。それが堂々として格好良くて好きだ。

駅前から北に向かって歩いていくと、歩道橋が見えてくる。何の変哲もない歩道橋なのだけれど、一度上がってみてほしい。そこから見える景色がすごく良いのだ。
遠くに目をやると、左右対称に植えられた木々が立ち並んでいる様を一望できるし、足元を見ると車がびゅんと駆け抜けていくのを楽しめる。
歩道橋の上から家々の明かりやマンションの常夜灯、コンビニから漏れ出る光を眺めていると、深夜だけど確かに人々の営みが続いているのを感じる。そして、私もこの街の一部なのだという安心感に包まれる。一人で過ごしていても、街には孤独を埋めてくれる何かがあるのだと思う。

様々な理由で引越してしまって、今はもう阿佐ヶ谷には住んでいない。それでも時々、当時の生活についてふと思い出すことがある。
20代の前半を過ごした阿佐ヶ谷には、まだ若かった私のすべてが散りばめられているような気がする。社会に出ることへの不安や、自分だけの生活を手にした喜び、何者にもなれないことへの焦り……。
いま思い出してみると、もう失ってしまった感情が街のあちらこちらに落ちているかのようだ。街だけがすべてを知っている。当時と同じ夜をもう過ごせないことを、私は今ほんの少しだけ寂しく感じている。


で物件を探す

賃貸|新築マンション|中古マンション|新築一戸建て|中古一戸建て|土地

著者:飯村大樹

飯村大樹

1995年、茨城県水戸市生。ブックデザイナー。自主制作の書籍として『失われた「実家」を求めて』『サッド・バケーション』『よそ見とその反対』がある。

編集:ツドイ




以上の内容はhttps://suumo.jp/town/entry/asagaya-iimura/より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14