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「回向」」できる、できない

上野大輔「鯨と江戸時代人」(井奥成彦編『動物たちの江戸時代』*1、pp.212-242)


曰く、


日本の歴史において、鯨と人々の関係が大きく変わったのが江戸時代である。漂着した鯨を突き取るだけではなく、鯨組の突取法や網掛突捕法による組織的な捕鯨業が全国各地で展開し。一層主体的・計画的に鯨を捕獲するようになった。捕獲した鯨の肉が食用とされただけでなく、油や骨などが様々な商品となって流通し、消費された。鯨に関する知識・技術が大きく向上し、その情報が書物としても流布した。そして捕鯨業が地域や国家にとって有益な産業として認識されるようになった。また、鯨に供養が催され、供養碑が各地に建立された他、鯨と関わる新しい文芸や伝承も生み出された。(後略)(p.212)

長門国大津郡*2では延宝期*3以降、鯨組による網掛突捕法の捕鯨業が展開した。それと同じくして、同郡の通浦では鯨回向という行事が始まった。延宝七(一六七九)年、通浦の向岸寺(浄土宗)五世住職の讃誉が、浦の民衆の二世安楽と鯨の菩提のために寄付された聖観音のの木像を観音堂に安置した。(略)享保十九(一七三四)年に亡くなって以降も、通浦では鯨回向が営まれ、地元の民衆が参加した。
回向とは、差し向けるという意味であり、自分がよい行い(読経や称名念仏)をすることで、自分を救うことができるだけなく、その功徳を差し向けて他者を救うこともできるという考えに立脚している。救いというのは、浄土宗の教えであるので、最終的には極楽浄土に生まれ、成仏するということである。こうして鯨を救おうとするのが鯨回向の趣旨である。
この鯨回向だが、元禄期以降には位牌・墓・過去帳を伴った独自の形態が定着した。(後略)(p.228)

一方、鯨の過去帳は位牌や墓と同時期に始まったとされるが、第一巻の過去帳は山崩れに伴い亡くなったと伝えられている。(略)現存する過去帳は何冊かあるが、最も古いものが『鯨鯢過去帖』であり、確認できる範囲では、ここには享和二(一八〇二)年十二月六日から天保九(一八三八)年まに捕獲された鯢一五一頭前後の戒名、捕獲年月、捕獲時の庄屋名が、日ごとに記載されている(朔日を欠く)。鯨の種類・大きさ・捕獲場所・捕獲時刻等も罹れている場合がある。大半の戒名に「誉」号があるが、これは化他五重(浄土宗の奥義伝授)によるものである。(pp.229-230)

(前略)鯨回向は大津郡の瀬戸崎浦でも行われた。同浦の浄土宗寺院である極楽寺や円融寺でも鯢位牌がつくられ、極楽寺には現存している。また、法華宗の普門寺にも位牌があり、法華経に基づく独自の弔いがなされたようである。(p.230)

(前略)鯢位牌と鯨墓の正面には六次名号*4と諏訪の神文がある。諏訪の神文は呪文として唱えられたもので、全国的に確認されている。音読みすると、「ゴウジンウジョウ スイホウショウコシュクニンデン ドウショウブッカ」となる*5。(略)前世の因縁で宿業の尽きたために捕えられた野生の動物は、話しておいても長くは生きられず野垂れ死にする運命にあるのだから、人間の体内に取り入れられ、人間と同化して成仏するのがよいというのが、神文の大意ではないかとされる(千葉徳爾ものと人間の文化史 狩猟伝承』)。捕えられた生き物というのは、捕えられるべくして捕えられたのである。ここで死ぬ運命にあるので、再び逃してやってもどうせ死んでしまう。そこで、この生き物を食べて、食べた人と一緒に救われるのがよい、ということは想定できる。
これが「南無阿弥陀仏」という浄土宗の念仏によって根拠付けられている。つまり、いくら食べたところで、人やクジラが救われなければ意味がなくなる。そこで、この念仏によって、鯨を食べた人や、捕えられた鯢自体が救われるということが重要になる。鯢位牌や鯨墓には、鯨を殺して食べることを正当化する立場が示されていると言える。これは単なる個人の信仰にとどまらず、通浦の民衆(特に浄土宗の檀家)の」信仰として、ある程度共有されたことと思われる。(後略)(pp.230-231)

(前略)捕鯨業には悲しみや罪業観が伴っていた。ここでいう罪業観は、単なる内面的・倫理的な問題にとどまらず、折衝の報いが生活に降りかかるような、実際の問題と関わっていた。(略)また、親子連れの鯨を標的とすることがあり、親子の情を逆手に取って仕留めることも、罪業観とつながり得た。よって、鯨を仕留めたからといって、単に喜んでばかりはいられなかった。捕鯨により巨利を追求することは、罪業観と表裏一体となり得たのである。
ここで通浦の浄土宗の役割を確認すると、まず鯨回向によって人やクジラを救うことが挙げられる。また(略)捕鯨業の繁昌などのご利益も祈られた。それによって実現するとされたのは、鯨も人も救われ、繁昌するということである。かくして鯨回向は、捕鯨業の正当化ないし滅罪に寄与し。社会の存続の思想的基盤となり得たと考えられる。鯨回向やその他の祈りは一度やれば終わりというのではなく、捕鯨を主な生業としたため、回向や祈りも続ける必要があった。また、すぐれた僧侶が行えば一層翁効果が得られるとされた。それゆえ、捕鯨地域において寺院を中心に営まれる重要な行事となったのである。(pp.231-232)
鯨のほかにも、殺生された生類への回向(供養)は行われた。しかし、位牌や墓や過去帳など、人間のように弔われたのは鯨だけである(p.232)。
浄土真宗の場合。真宗では、人間が回向することができない。

(前略)一六世紀半ば以降。中国地方に真宗が本格的に普及し、大津郡でも真言宗に代わり真宗の影響力を強めたことが指摘されている(『長門市史』歴史編)。そして十七世紀にかけて、地域の民衆による真宗寺院の建立が進んだ。こうして大津郡では真宗の寺院・門徒が全域的に勢力を持ち、港町。漁村では浄土宗の寺院。門徒も勢力を持つような宗派構成となった。
(略)真宗の教義上の立場においては、浄土宗のような回向を行うことができなかった。真宗では、阿弥陀如来の救いを信じることで自分が救われる(極楽往生できる)とされるが、新人を得て以降の生前の念仏は感謝のために称えるものとされ、それによって自分や他者を救うことは認められなかった。回向の行使主体は人間ではなく阿弥陀如来であり、回向に対する考え方が浄土宗とは異なっている。
真宗寺院では、始期は不明だが、鯢法会という行事が営まれてきた。鯢法会以外に魚法会などもある。これらの法会は、少なくとも真宗寺院の側からすると、人やその他の生き物を救うための行事ではなく、捕鯨や漁業などを営む人々が決まった日に集まって真宗の教えを確認し合う行事であった。よって、真宗寺院に属する民衆は、日々様々な生類を殺して生活せざるを得ない場合、そうした殺生とどのように向き合うかが独自の課題となり得た。(pp.232-233)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/06/18/123641

*2:現在は山口県長門市

*3:西暦では、1673~1681年。

*4:南無阿弥陀仏」。

*5:「業尽有情雖放不生、故宿人天同証仏果」(pp.228-229)。




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