鶴見太郎『ユダヤ人の歴史』*1によれば、「ユダヤ教」の「核心部分」は「「ヤハウェ」と呼ばれる神に対する一神教信仰」である(p.31)。
これは或る意味で少なからずミスリーディングな説明である。実はユダヤ教にしてもキリスト教にしてもイスラームにしても、神以外の超自然的な存在者の存在を認めないわけではない。天使に悪魔、それから精霊(妖精)たちがいることになっている。重要なことは、こうした超自然的な存在者が決して神と混同されないということなのだ。多神教と呼ばれる伝統では、超自然的な存在者(神、妖怪、鬼等々)の間のカテゴリー的な差異が曖昧である。また、それとともに神と神がかった(凄い/変な)人とのカテゴリー的な差異もまた曖昧になる。所謂一神教の場合、こうしたカテゴリーにまつわる曖昧性が排除され、「神」の存在も唯一化される、ということになる。
ここで「神に対する信仰ではなく「神に対する一神教信仰」と回りくどく書いたのには理由がある。彼らの神の捉え方にこそ特徴があるからだ。
一神教と多神教は、相互に排他的でない場合がある。同時に複数の神を崇拝しないならば、それは一神教に分類されるからだ。ほかにも神はいるのを知っているが、自分は特定の神しか信仰しないという場合も、山に入るときは山の神を、海に入るときは海の神を崇拝することはないという場合も、いずれも一神教に分類される*2。世界で神とよばれているさまざまなものには実は主席の神というべき元締めの神があるという考え方も一神教だ。
これに対して、ユダヤ教、キリスト教、イスラームに共通する信仰は「排他的一神教」と呼ばれる。世の中に唯一神以外に神の名に値するものは存在しないという、以上のタイプの一神教さえ否定する考え方だ。したがって、自分ないし自民族が信仰している神は、他者・他民族も支配しており、別の神を崇める者は、単にそのことに気がついていないだけということになる。また、他民族であっても同じ神の救いに与る可能性があるということにもなる。
三宗教とも、世界を唯一司るところの同じ神を信仰することは相互に了解している。異なるのは、神の道に到達するための考え方や実践である。(ibid.)