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「自死」だった

棋客*1北沢恒彦という人」https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2025/03/27/230948


京都工芸繊維大学で行われている展覧会『建築アーカイブズをひらく Vol.2 まちの診断師 北沢恒彦-ポスト経済成長期の商店街と市民』*2を巡って。
北沢恒彦*3が京都で活動していたことも知っていたし、また鶴見俊輔の回想録『期待と回想』*4の聞き手のひとりであり、『期待と回想』を初めて読んだとき。既に故人であることは知っていたが、「自死」ということは気がつかなかった。
引用しておく;


北沢は1950年代前半に鴨沂高校に通っており、当時の高校新聞に面白いことが書かれている。そもそもこの新聞自体が面白くて、自治会の中央執行委員長の選挙とその抱負(フハイした自治会を立て直すとか書いてある)とか、校長とのインタビュー(校長がざっくばらんに喋っていて面白い)や、「平和憲法を守ろう」というテーマの記事、それに紛れて修学旅行の行き先の投票があったりする。終戦の時に5~6歳という世代だから、戦争への危機感というものが色濃く反映されていて、今の大学でも到底叶わなくなったことを高校でやっていて素晴らしい。

 で、その紙面の中に、「火炎瓶を高校に投げ入れて学生が逮捕された」という記事があり、そこに北沢の名前がある。当時は朝鮮戦争反対運動が盛んで、共産党が非合法下にされた時代でもあり、おそらく北沢の行動もその文脈にあるものだと思う。文集に載っている北沢が書いた小説には、時間厳守を説くシーンで、レーニンの言葉を引き合いに出したりしている。メモ帳にも、マルクスレーニンの言葉がよく出てきている。簡単に言えば、北沢はいわゆる極左活動家で、なおかつかなりの行動派だったのだ*1。

 その後、北沢は日本共産党を追放された後、「ベトナムに平和を!」連合の京都の事務局長を長らく務め、左派の活動をずっと続けてきた。市役所に入る前に働いていたところでも労働争議をやっていた。文章を書いて世に出すこともずっとしていたようで、『思想と科学』の編集や、編集グループSUREの立ち上げ(退職後)も行っている。文章が多いだけではなくて、スケジュール表やファックス・手紙など、かなり細かいことも記録に残していて、こういうところにも活動家っぽさを感じる。


 確かに、展示されていた年表を観た時、かすかな違和感があった。年表には、1999年の4月に「活動を終了した」とあって、その後に出先の資料を整理して実家に送るなどし、その年の11月に亡くなったと書かれていた。準備が良すぎるという違和感(病気で先が長くないと思っていて、身辺整理をしていたのか?とぼんやり思っていた)と、こうした筋金入りの活動家が「活動を終了する」ってどういうことだ?(どこでどんな方法でも「活動」はできる、って考えそうなものなのに)という違和感である。

 北沢がなぜ死んだのか、自分はよく知らない。北沢自身の著書もあるし、北沢の死後に編まれた『北沢恒彦とは何者だったか?』という本もあるので、色々読んでみてから考える必要があるのは分かっている。でも、頭であれこれ考えてしまうのも止められない。

 もう十分やりきったと思ったのかもしれない。病気だったのかもしれない。自分のやってきた活動記録を整理できるうちに死のうと思ったのかもしれない。多分、たくさんの断絶も経験してきたのだろう。思想的に相容れないと分かっている人との決裂もあれば、同志と信じて疑わなかった人との切ない結末もあったと思う。そういう関係が影響したのかもしれない。納得できないことも山ほどあっただろう。結局自分は何もできなかったと思ったのかもしれない。もちろん今の私には何も分からないが、とにかくあなたと話したかった、そんなことを思った。

作家で鶴見俊輔の伝記もものしている黒川創は息子。




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