以下の内容はhttps://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/03/09/144610より取得しました。


ウルフ『灯台へ』

ヴァージニア・ウルフ灯台へ』(鴻巣友季子訳)*1を最近読了した。


第一部 窓
第二部 時はゆく
第三部 灯台


訳者あとがき
解説(津村記久子

訳者の鴻巣さん曰く、

見えているはずのものが見えなくなり、見えなかったものが見えてくる。『灯台へ』は言ってみれば、見えるものと見えないものが絶え間なく入れ替わる物語でもあるだろう。そして、第一部ではvisionnaire(ヴィジョンを見る者、幻視者)だった大人が、戦争の駆け抜ける第二部をはさんで、第三部ではvisionそのものとなる。そう、見るものと見られるものが入れ替わる物語でもあるのだ。第三部は、さながらvisionとvisionnaireの追いかけっこのような様相を呈する。そして第11章で、波の音を聞いたリリーは、かつてのラムジー夫人そっくりの所作で、はっと顔をあげる。ここは、visionとvisionnaireが重なって一になるクライマックス・シーンのひとつでもありだろう。
この小説の最後に「見るもの」として登場し、とうとうヴィジョンをつかむのは、新しい世代の女性リリー・ブリスコウである。もともとウルフの手書き原稿の最後は、”It was over. But she had her vison.”(これでお終い。でも自分のヴィジョンはつかんだ)と三ん章で書かれており、余白に”The white shape stayed perfectly still.”(その白い形は完全に静止していた)と記されていたという。(p.395)
実際、その「ヴィジョン」は絵を描くということに関連している;

まるでなにかに呼ばれたかのように、リリーはあわててカンバスに向き直った。まぎれmなくここにある――自分の絵が。そう、緑や青をふんだんに使い、ラインを縦横に描きこみ、なにかを表現しようとしているものが、屋根裏部屋に掛けられる絵かもしれない。焼かれてしまうかもしれない。でも、それがなんだと言うのだろう。
リリーはふたたび絵筆をとりながら自問した。上がり段に目をやれば、そこにひとけはない。またカンバスに目をもどすと、なんだかぼやけて見えた。そのとき不意に、一瞬そこになにかをはっきり見てとったかのような力強い筆さばきで、リリーは一本のラインを絵の中央にひいた。さあ、これでできた。ようやく終わった。疲れきった絵筆を置きながら思う。ええ、わたしは自分のヴィジョンをつかんだわ。(第3部第13章、pp.374-375)
また、鴻巣さんの言説に戻ろう。

第一部と第三部にはさまれた第二部「時はゆく」は、三部のうちでも非常に特異なスタイルで書かれている。第一部で夜の浜辺に出かけていった人々が帰ってきて、みんな眠りについたと思うと、そこから沛然たる雨のごときはてしない暗闇があたりを包みこみ、主要な登場人物はすべて舞台を去って、家主不在となった家の荒廃していくありさまが、ものすごい密度で描かれる。戦争があり、何人もの人物の死があり、人生の劇的な変化がある。ようやく手伝いのマクナブ婆さんたちがやってきて掃除を完了させ、リリーが目を覚ますところで第二部は終わる。つまり、過ぎていった十年の歳月を、夜に眠って朝に起きるひと晩の時間として描いているのだ。密度が濃くなるのも当然である。他の二部とは文章のトーンもまったく異なっている。(p.396)
第2部の「ものすごい密度」の語りに関して、お能地謡を想像していた。第2部では、シテもワキも訳者はすべて退場して地謡だけが響き渡り、やがて狂言方が舞台にやってくる。
そもそも『灯台へ』という題名、「灯台」とは何なのか。「灯台」は何やら象徴的な意味を担っているのでは? 第1部においては「灯台」は言葉としてのみしか存在しない。「ヴィジョン」(映像)として登場するのは第3部である、小説の最後にラムジー氏らは辿り着き(第12章)、灯台へは行かないリリー・ブリスコウも「これで済んだわね」と呟く(第13章、p.373)。




以上の内容はhttps://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/03/09/144610より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14