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折口の裔

脚本家の金城哲夫*1の命日にあたって。
「宇治の瀧屋」氏*2のツィート;


そうだったんだ!
上原輝男については、「上原輝男記念会」*3というのがある。また、上原の略歴については、


児童の言語生態研究会「上原輝男先生の経歴と研究の歩み : 略年譜」『児童の言語生態研究』17、p.132、2009 https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00045214


また、「ウルトラマンの生みの親の一人、金城哲夫と玉川学園」*4には、


金城が2年生になったとき、3年生と2年生が一緒に受講する講座制が導入されました。金城が受講した講座の担当講師は、入学試験のときに彼を面接した上原輝男でした。上原はこの講座で民俗学について金城たちに熱く語りました。この講座、そして上原との出会いが金城の将来に影響を与えることになります。2学期に入り、金城は自由研究発表会の準備に追われました。沖縄の特異性について研究をしていた金城は、発表会で沖縄語の特徴について発表し、多くの生徒たちに感銘を与えました。また、金城は一年上級の森口豁とともに「玉川東陵新聞」という学内新聞を発行しています。なお、森口は、のちに琉球新報の記者を経て、日本テレビに移り、本土復帰前後の沖縄を追いつづけました。そして制作したドキュメンタリーでカンヌ映画祭において特別賞を受賞し、さらに1983年度日本ジャーナリスト会議奨励賞、1984年度テレビ大賞優秀個人賞を獲得しました。

玉川学園高等部卒業後、金城は玉川大学文学部教育学科へと進学しました。上原輝男は、金城が大学に進学する同時期に、高等部教諭から玉川大学専任講師へと職を移しています。そして金城は、高等部の時の担当教諭であり、大学時代の恩師である上原の影響を受け、脚本制作に興味を持ち始めました。

金城は大学を卒業後、一旦沖縄に帰り、映画『吉屋チルー物語』を製作します。その頃、上原は、玉川学園高等部で円谷皐の担任をしたのをきっかけに、『ゴジラ』や『空の大怪獣ラドン』『モスラ』など大ヒット特撮映画を世に送り出した円谷英二から『竹取物語』の脚本化の依頼を受けていました。(上原が1960年に書いた『燃ゆる恋草』を松竹が映画化)円谷皐は円谷英二の次男で、後に円谷プロダクションの社長になります。同時期、再び上京した金城は上原を訪ねます。そして、上原は脚本家志望の金城を円谷英二に紹介。やがて金城は、『ゴジラ』など東宝特撮映画の脚本家である関沢新一より指導を受けることになり、脚本家としての道を歩み始めます。
とある。




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