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カントに逆らって

合田正人吉本隆明柄谷行人*1から;


「原生的疎外」という関係性を吉本はまず「知覚」として捉えている。その「原生的疎外」の変容であるかぎり、「純粋疎外」も「知覚」から完全に離れられるわけでないのだが、しかし、「純粋疎外」を閉じたものとして、あたかも閉じたものであるかのように内向化――「遠隔化」――すると、逆にその反作用として、灰皿なら灰皿という知覚対象はこうした内面と切れた没交渉の「客体性」([後略]他者性)を獲得することになる。対象(客体)を理性的に認識し判断すると言われる場合に生じる出来事である。
今、「理性」という語を用いた。多くの場合、私たちは「感性」、「悟性」(知性)。「理性」というカントの区分をかなり安易に使用している。たぶん、この区分をあまり信じることもなく。この点で、吉本の『心的現象論序説』の画期的な点は、哲学者も一般の人々も仕方なく前提としているこの位階を覆そうとしたことである。吉本はこう言っている。

もしも、心的領域を原生的疎外とみなすならば、古典哲学が感性から理性へとはせのぼる意識内容とかんがえてきた段階的な区別はすべて薄ぼけた境界をもった区別にしかすぎなくなる。感性とか理性とか悟性とかいう概念はそこでは明晰に存在しえない。(同九三ページ)
(pp.106-107)

感性、悟性、理性という位階に代えて、吉本は先述の「原生的疎外」(純粋疎外)の領域を、「環界」からの「空間性」「空間化」と、「身体」からの「時間性」「時間化(度)」という座標のごときものとして描いた。そのうえで、嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚といった諸感覚のあり方、古典的な認識のカテゴリー(理性や悟性)を。あらためてそこに位置づけようとしている。(p.108)

(前略)吉本のやっていることは、私たちが確たる根拠もないままに感性、悟性、理性というカテゴリーを使い分けていることを一つの動機としているのだから、重要なのは「図*2の円錐状にしめされた心的領域は、無数の時・空性の構造としてかんがえるべきである」(同五二ページ[略])という点にあるのではないか。こうして時間と空間という二方向の疎外としての「原生的疎外」の領野の輪郭線とそれで囲まれる面の把握(いわば微分積分)が可能になる。
それだけではない。たとえば「理性」(raison)というと、その反対概念が「反理性」「没理性」としておのずと措定されて、安易に二分法が使われるのみならず、フランス語でderaisonという場合のように、そこに「狂気」の意味が強く捺されることになる。これは(略)きわめて深刻な点なのだが、吉本が、いささかも倒錯した憧憬を込めることもなく、「あらゆる心的な(異常)現象は、けっして通常の意味での異常ではなく、人間の心的な領域が本来もっている可能性という意味しかもたない」(同一二七ページ)と『心的現象論序説』に記しえたのも、「原生的疎外」の時間化・空間化度によって認識を把握したからだ(後略)(pp.109-110)




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