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学問

熊倉功夫後水尾天皇*1から。
(「禁中幷公家諸法度」において)「公家における学問がそれぞれの家業であったとすれば、天皇におけるそれは、第一学問、すなわち中国唐代の帝王学である『群書治要』であり、かつ歌学と有職学であった」(p.60)。
というわけで、後水尾院の学問史が言及されている;


(前略)最初に学んだのは『孝経』*2で、これは十歳のとき。先生は公家の儒者として第一人者である舟橋秀賢である。約半年かかって『孝経』がおわるとつづいて『大学』。これは約四ケ月で済み、翌年には『孟子』に進んだ。その後しばらく漢学のことは記録にみえないが、慶長十七年にふたたび秀賢から『大学』の講釈をうけている。漢籍ではないが、山科言緒に命じて『日本書紀』に訓点をつけさせ、翌十八年には東福寺の聖澄に『古文真宝』*3の講釈をさせ、八ケ月余りかけて終了。同じく東福寺の清韓の蘇東坡講釈をきいている。禁中幷公家諸法度が発せられた元和元年(一六一五)にも『論語』を建仁寺の東鋭からきくといったぐあいで、かなり熱心に漢学を学んでいる様子がうかがえよう。(p.61)
さらに、

儒学を中心としたこのような漢学の素養のうえに後水尾天皇が生涯を通じて精進をかさねた歌学、そして最大の業績である『当時年中行事』の有職学を重ねて考えてみると、結果としては、後水尾天皇こそ歴代の天皇の中で禁中幷公家諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であったといえるであろう。幕府の規定がなくとも、天皇の伝統的任務は歌学と有職であったにちがいないが、公的に定められ、その見事な開花が後水尾天皇にみられるとすれば、それは江戸時代を通じて、さらに近代における天皇像を形成するうえに大きな役割をはたしたといえよう。(ibid.)
と言われている。




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