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弟として

熊倉功夫後水尾天皇*1から。
後水尾院は後陽成院の第3皇子だった。兄2人はいずれも仁和寺に入り法親王となっている(覚深法親王、承快法親王)(pp.30-31)。つまり、兄2人を差し置いて帝位に就いた。また、「 後水尾天皇」はいても〈水尾天皇〉と(正式に)名指される天皇はいない。


二人の兄が退いた後、三宮である政仁親王(当時六歳)だけが残された。その事情こそ理解できなかったにせよ、二人の兄が次々と禁中を去ってゆくことに幼い三宮の心は傷つけられたであろう。『西山雑録』は。二人の兄を押しやって皇位についたことが。「御水尾」という謚号*2を自ら選んだ理由であったとしている。水尾天皇とは京都の愛宕山ふもとの水尾村*3に御陵をつくって葬られた清和天皇(八五八―八七六在位)のことである。清和天皇もまた、本意ならず兄をしりぞけて皇位についた天皇であった。すなわち、文徳天皇の第一皇子は惟高(僑)親王であったが、やがて藤原良房の女明子が第四皇子惟仁親王を産み、外戚の力で惟仁親王皇位についた。清和天皇である。しりぞけられた惟高親王の悲劇は『伊勢物語*4 によって広く世に知られる。この説を記す『西山雑録』が水戸(徳川)光圀*5の随筆である点も暗合めいたところがある。つまり、光圀も晩年まで、しりぞけられた兄のことが心にわだかまっていたということになろう。(p.32)




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