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「ディシプリンの違い」

山内志朗『中世哲学入門』*1から。


普遍は第一志向ではない。もし第一志向であるとすると、普遍が事物として存在していることになり、普遍の物象化を夢見るという、プラトニズム以上のウルトラ・プラトニズムが生じる。普遍は可感的形象でも可知的形象でもない(略)普遍は知性の認識作用だが、第一志向ではなく、第二志向*2であり、その場合に、対象となる事物(複数の個体)の現実存在を前提しない以上、対象的存在(esse objectivum, tantum esse in anima)や〈理虚的存在〉であっても、普遍は普遍として成立しているである。(p.78)

論理学は、第二志向と言われる〈理虚的存在〉を対象とする。そして、形而上学は実在的存在(ens reale)を対象とするということで棲み分けがなされ、その違いが後に「古い学者、伝統的学者antiqui」と「新しい学者、現代的学者moderni」の違いに反映することになった。普遍が第一志向なのか第二志向なのか、ということは普遍を扱う権益がどの学問に属するかとも関連してくる。十四世紀、普遍は論理学の中で論じられるようになっていく。すると、普遍については、どうしても唯名論が主流になっていったように見えてしまうのである。しかし、唯名論が普遍に関する理論とは限らないこと、そもそも唯名論という名称が何を意味しているのかを考えるとき、実在論唯名論という対立も根本から考え直さなければならなくなるのである。〈理虚的存在〉を扱うことが論理学の課題となり、実在的存在のすべてを扱うことが形而上学の課題となったと整理できるが、その場合、実在論唯名論という分類は対立を表すのではなく、学問領域が異なっているだけ、つまりディシプリンの違いになる。両者の学問は十四世紀以降、分かれていった。実在論唯名論は、学問分類に基づく違いという側面を有している。〈理虚的存在〉はもともと実在的なものとして捉えられていたが、名のみのものとみなされるようになっていき、オッカムは〈理虚的存在〉を実在的なものと見なしたのである。(後略)(p.79)




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