合田正人『吉本隆明と柄谷行人』*1から。
「生命とは何か」ということについて。
合田氏はこのアイディアを、以下のような吉本隆明『心的現象論序説』の一節と比較している。「生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいして一つの異和をなしている」(cited in pp.90-91)。この「異和」を吉本は「原生的疎外」と呼んでいる(p.91)。
(前略)私は「膜」(分子膜)なるものに注目している。すでに淀みや不溶物を含んだ一様ならざる液体のなかに何らかの仕方で「膜」のような面ができ、それによって流れに変化が起こる。閉じていなくとも何らかの変化が「膜」の周辺で生じる。その変化が「膜」に反作用して、特に「膜」の拡張を促し、流れそれ自体のあり方なども複雑にそこに関わることで、「膜」が多数の隙間を有しながらも、相対的に閉じた空間になる。それに応じて、この空間は独特な環境と化していく。(p.90)
この「異和」は無機的自然への生命体の作用ないし応答であり、無機的自然はそれによって何らかの仕方で変容を蒙るのだが、同時に生命体もまた何らかの変容を蒙る。(略)「異和」の解消、疎外の克服は、フロイトが無機的自然への回帰を「タナトス」(死への衝動)と呼んだように、まさに「死」にほかならない。(ibid.)
人間(生命体)の身体が自然――吉本によって「環界」と名づけられる――における〈有機的自然〉と化していくかぎり、「原生的疎外」は無機的自然への「異和」であるのみならず、自分自身の身体をも含めた有機的自然、生理(他の生命体)への「異和」でもある。生理的意味での人間的身体は無機的自然との異和(自然からの疎外)であるが、心性はこの身体との異和(身体からの疎外)であるからだ。
後年の吉本が重視する「胎盤」と胎児の結びつき、そして切断もそれ自体で、無機的自然ならびに有機的自然からの二重の「異和」を表していた。この二重の「疎外」(Entfremdung)を、吉本は「他Fremdへの曝露」と捉え返して、「生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している」(『心的現象論序説』二三ページ)と表現している。(p.92)
(前略)「タナトス」は「エロス」(性の衝動)と対になっていて、「エロス」は言うまでもなく吉本における「対幻想」と対応しているから、「原初的疎外」によって生まれる「心的なもの」はすでに「対幻想」との関わりを含んでいることになる。「エス」は「自我」を間に挟み、「超自我」の対極にありながら実は「超自我」と共犯関係にあった。「超自我」は吉本の「幻想的共同性」ないし「共同幻想」に対応している。
(略)たとえば『ドイツ・イデオロギー』で、「国家」が「幻想の共同性」と換言されている箇所などを参照すると、「幻想」がIllusionの訳語であることが分かる。フロイトの「ある幻想の未来(Die Zukunft einer Illusion)」(一九二七年)とのつながりが、語句表現の点からも出てくるのだが、「幻想性、いいかえれば現実社会の〈自己意識〉(共同意識)の〈疎外〉としての幻想性一般」(『カール・マルクス』六〇ページ)とあるように、吉本は「疎外」(原生的疎外)の同義語として「幻想」を捉えていると考えられる。こうして「原生的疎外」は、三重の「幻想」(個人幻想‐対幻想‐共同幻想)の領野であることになる。(p.93)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/13/113046 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/17/122213 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/28/111142 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/07/203446 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/14/150548 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/21/131507 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/05/192927