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星寛治

原剛「有機農業の先駆者、星寛治さんを偲ぶ」『機』(藤原書店)384、pp.6-9、2024


曰く、


「正徳院有機農寛大居士」星寛治は、昨年一二月七日、八八歳で逝った。
日本人の誰もが農薬BHCDDTに汚染されていた一九七三年、星が率いる青年農三八人が奥羽山脈の直下、置賜盆地の一角山形県高畠町から、農業基本法農政に敢然と反旗を翻した。
「農地を拡大し、儲かる作物を作れ。化学肥料と農薬を多投せよ」。基本法は高度経済成長策の農業版だった。
彼らは農機具代を賄うための出稼ぎを拒否、有機無農薬農法による自給農業への回帰を計った。高畠町有機農業研究会の行動は、毎日新聞東京本社の社会部記者だった私を決定的に環境報道へ、高畠へと向かわせ、後に早稲田大学大学院で高畠をフィールドに「環境と持続可能な発展論」を開講することになる。(p.6)
有吉佐和子との関り;

作家有吉佐和子*1は高畠での取材を交え、ルポ風小説「複合汚染」を朝日新聞朝刊に連載(一九七四年)、食べ物の農薬汚染を告発して大きな反響を呼んだ。有吉が賞味した星のリンゴ樹は農薬を用いない有袋栽培により今も実を結ぶ。
有吉の娘。作家の有吉玉青は二月一七日東京で催された「星寛治さんを偲ぶ会」で「私はその記念樹のリンゴを食べて育ちました」と顧みた。佐和子が突然死したその前夜、有吉は東京荻窪の自宅で高畠有機農研の青年たちと懇談し、星と長い電話を交わしていた。
翌日朝、毎日新聞社会部のデスクに就いた私は突然の報に仰天し、あちこちに記者を張り付けた。人の縁というものであろう。(p.7)


米澤氏の名門校興譲館から大学への進学を望んだ星は、父親から長男の家族扶養義務を求められた。「幽閉の村」で失意の農業を強いられた星は、「村の困窮と立ち遅れは、結局、農民の知的総合力の低さに起因する」と判断、一九五四年に「読書会」を主宰、宮沢賢治からドストエフスキーへと歩を進めた。(p.6)

星の本質は詩人だった。茨木のり子から贈られた「李つくる手にもう一つ成る詩の果実」のことはを修正心に留めた。
詩は観念の遊戯ではない。自分の体で書く、と星は言った。「仮想が混じる抒情詩ええも通底するのは土といのちの脈打ちであり、生身のリアリズムだと自負している。私にとって、有機農業と詩は同義語である。土に命を吹き込み、作物を育てる営みは、そのまま内なる土壌に創造の芽を育む行為だと考えている。
星八二歳の述懐だ。それは経済価値以前の実存的価値である、と星は断言した。(p.8)
See also


先﨑千尋「「有機農業運動の希望の星」星寛治さん逝く」https://newstsukuba.jp/48878/25/12/
大野和興*2「星寛治さんと有機農業の50年」https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2d4f3b0e6195671879888f7c555c5c8b77b2451d




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