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「個体」を巡って

合田正人吉本隆明柄谷行人*1第2章「個体とは何か」。
吉本隆明『初期ノート』からの引用2つ;


誕生したとき、すでにある時代の、ある環境のなかにあった、という任意性は、内省的な意識からは、どうすることもできないし、また意味づけることができないものである。わたしのかんがえでは、さまざまなニュアンスをもつた「存在」論の根拠は、つづめてみれば、かれ自身にどんな意志もないにもかかわらず、そこに「在つた」という初原性に意味を与えようとすれば、「類」と「個」としての人間という概念をあみださざるをえない。「類」は生まれもせず、また死にもしないで継続するが、「個」は生まれたり死んだりする、というように。/しかし、「存在」論が、現在、ある時代的な意味をもつて主張されるのは、生まれたり死んだりする「個」そのものが、現代では、あまりに自己自身からも、「自然」からも、みじめに遠ざけられているからである。このような時代では、人間の任意な「存在」そのものが愛惜され、いたわられ、意味づけられなければならないという欲求は、拒むことができないようにみえる。 
(『初期ノート』五四一~五四二ページ)(Cited in p.85)

戦争とは「個」の体験にとつて何か、平和とは「個」の体験にとつて何か、を語ることは、現在でも困難である。それが「類」にとつて何を意味するか、を問うことも決して易しいことではない。レーニンの『帝国主義論』*2は、この問題に論理をあたえた数少ない古典的著作のひとつということができようが、わたしたちが、「個」と「類」の接点の「存在」において、戦争と平和の問題のからみあつた泥濘の構造をとりあげようとすれば、依然として困難は、困難として残るのである。わたしの考えではこの困難をとりあげるのは、決して不必要なことではない。すくなくとも、わたしたちの現実的な体験が語りかけるところでは、「類」の論理は、何らかの度合と形式で第二次世界大戦中の日本では死滅している。この死滅はただ、「類」と「個」とが交錯する接点の思想を深めることによつてしか回生できないということは、「特殊」の「普遍」として明瞭なことである。
(『初期ノート』五五〇~五五一ページ)(Cited in p.86)
合田氏は次のように指摘している;

論点を先取りして言っておくと、吉本の書いたものには「個体として~」「個体に~」といった表現が多々見られるが、「個体化」(individuation)という言い方は見られない。しかもそれは、単に語が不在であるだけでなく、吉本の議論が結局「個体」の存在を前提とした議論であって、「個体化」の過程を示していないことの現れではないだろうか。そのことが、「個―個」「個人―家族―社会」の連関の把握に作用せざるをえなかったのではないだろうか。ちなみに、「個体化」「個体化原理」は古代から現代に至るまで、哲学の恒常的で最も重大な問題の一つでありつづけている。(p.87)




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