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「ブラック・ボックス」(メモ)

浅田彰佐和隆光、新藤宗幸「ポスト・モダンとネオ・モダン」(in 佐和隆光、新藤宗幸編『90年代の選択 世界と日本を読む』*1、pp.19-47


浅田彰の発言をメモ;


ただ、ポスト・モダンなテクノロジーそのものがプレ・モダンな退行を促す面もあるかもしれませんね。そもそも、モダンなテクノロジーは、できが悪い機械であり、いわばグレイ・ボックスだった。カメラでも、いちおうどうやって写るか知っていないといけない。できることの限界も知っていないといけないし、こわれたらなかを開けてなんとか直さなければいけない。マルクスなんかが考えていたのは、そういう機械を使って自然と相互作用するうちに、労働者は労働の手段や対象について学習していくだろうということであり、それが近代の啓蒙ということの内実だったと思います。ところが、ポスト・モダンのテクノロジー、コンピュータ内蔵で完全に自動化されているテクノロジーは、一種の巨大なブラック・ボックスになっている。何でもいいからあれを写したいと思ってカメラを向けてシャッターを切ると、カシャッと撮れてしまう。なぜ写るのかはわからないし、こわれたらこわれたで直しようがないから回路ごと取り替えてしまう。そうすると、機械の性能に合わせて自分のもともとの欲望を修正する必要もなければ、機械の作動原理や修理方法について学習する必要もなくて、ある意味で幼児的な状況が保存されてしまう可能性がある。そこにポスト・モダンなテクノロジーがプレ・モダンなメンタリティと通底するひとつの理由があるんじゃないか。(pp.30-31)

埋もれていた本3冊;

新田俊三編『国境を超えた社会民主主義日本評論社、1991

佐和隆光『尊厳なき大国』講談社、1992

内橋克人、奥村宏、佐高信編『会社人間の終焉』岩波書店、1994

後二者についてはSee also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110118/1295373044




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