
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season5
Season4までは、国内外の企業事例を通じてマーケティングの原則を学んできました。
Season5でも引き続き、私たちの身近にあるサービスや商品が「なぜこう設計されているのか」を事例で深掘りしていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
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2023年7月にリリースされた『Pokémon Sleep』を覚えていますか?
枕元にスマートフォンを置いて眠るだけでポケモンの寝顔が集まる、という睡眠ゲームアプリです。リリース直後から話題になり、累計2,000万ダウンロードを突破。*1 日本のApp Storeの「健康&フィットネス」ジャンルでダウンロード数トップを記録しました。*2
ゲームは本来、時間を忘れて熱中するもの——つまり睡眠の「敵」のはずです。そのゲームが、なぜ「早く寝よう」という動機づけに変わったのか。ブームの熱狂は一段落しましたが、この設計思想にはマーケターが学ぶべき本質が詰まっています。
「眠るだけ」——なぜ、それだけでゲームになるのか
2023年当時、国内の睡眠関連市場は急拡大していました。ヤクルト1000が「睡眠の質改善」訴求で空前のヒットを記録し、スリープテック市場は前年比で大幅に拡大。*3 多業種が「睡眠の質を上げる」というテーマで一斉に参入していた時期です。ポケモンが睡眠市場に参入したのは、まさにこの文脈でした。
ただ、ここで少し立ち止まって考えてみてください。
ゲーミフィケーションとは本来、継続が難しい行為を続けさせるための仕掛けです。単語学習、筋トレ、節約——どれも「やろうと思っているのに続かない」から、ポイントやバッジで動機づけする。継続という課題があるからこそ、ゲーミフィケーションが機能します。
では、睡眠はどうでしょうか。睡眠は能動的な行為ではありません。続けようと努力しなくても、人は毎晩必ず眠ります。継続の課題がない行為に、なぜゲーミフィケーションが必要なのか——。
ポケモンが考えたのは、継続させることではなかったのです。「ただ眠っているだけの時間に、意味を与える」こと。これが他の睡眠アプリとまったく異なる切り口でした。
| 従来のゲーミフィケーション | Pokémon Sleepの設計 | |
|---|---|---|
| ユーザーへの要求 | 意識的な行動・継続意志 | 生理現象(眠ること)のみ |
| 習慣化の難易度 | 高い(努力が必要) | 極めて低い(眠るだけ) |
| 離脱のリスク | モチベーション低下で離脱 | 眠る限り継続できる |

2本の軸が支える設計
このアプリが機能した理由は、独立した2本の軸が組み合わさっているからです。
①IP——入口としての圧倒的な有利さ
「ポケモンの睡眠アプリが出た」と聞いたから試した——これがほとんどのユーザーの実態ではないでしょうか。30年近く市場浸透してきたIPは、それだけでダウンロードの動機になります。認知獲得のコストをほぼゼロにできるという点で、IPは圧倒的に有利な出発点です。日本のユーザーの約70%は25〜44歳*2、子ども時代にポケモンで育った世代であることを考えれば、その浸透度は言うまでもありません。
ただし、IPだけでは続きません。好きなキャラクターのアプリでも、使い続ける理由がなければ消えていくだけです。
②ゲーミフィケーション——「眠ること」に意味を与える設計
IPとは独立した別軸として、行動設計があります。良質な睡眠を取るほど珍しいポケモンに会えるという報酬構造、そして「良い睡眠を取らないと会えないかもしれない」という損失回避の心理。*5 これにより「ただ眠るだけ」の時間が、ポケモンの寝顔を集めるという体験に変わります。
さらに、行動科学の「ハビット・スタッキング」——「夜に布団に入る」という既存の習慣に「アプリを起動する」を重ねることで、意識的な決断なしに行動が起きます。*4
ここでポケモンIPが再び効いてくる。報酬として提示されるのが「知らないキャラクター」ではなく「ポケモンの寝顔」だからこそ、集めたいという動機が生まれます。IPへの既存の愛着が、ゲーミフィケーションの報酬を価値あるものにしているのです。入口はIPが作り、眠る時間に意味を与えるのはゲーミフィケーション——この2本の軸が噛み合うことで、ユーザーは自然に「早く寝よう」という行動を手に入れました。

「奪い合い」から「寄り添い」へ——今日から使える視点
Pokémon Sleepが示したのは、マーケティングの新しいあり方です。
顧客の「時間」を奪い合う競争から一歩引いて、顧客の「生活」に静かに溶け込む——これが次の時代のマーケティングの基本姿勢ではないでしょうか。
まず、こんな問いを自分に立ててみてください。「私は顧客に、新しく何かを学ばせようとしていないか。努力させようとしていないか」。新人マーケターがよくやってしまうのは、商品の素晴らしさを伝えるために「まずこれを理解してください」「これを試してください」と顧客に要求してしまうことです。しかし顧客は、あなたの商品のために時間や努力を使いたいとは思っていません。
次の問いは、「顧客がすでに毎日当たり前にやっていることは何か」です。朝のコーヒー、通勤、昼食、就寝——そうした変えられない日常の動作に、あなたのサービスや商品をそっと「乗せる」ことができないか考えてみましょう。
顧客の生活リズムを変えようとするより、
生活リズムに乗っかるほうが、はるかに速く、深く定着する。
Pokémon Sleepは「睡眠を改善させよう」とは言っていません。「眠ったらポケモンに会える」と言っているだけです。それだけで、世界中のユーザーが自然に早寝の習慣を手に入れました。ユーザーが健康になり、企業は収益を得て、ポケモンブランドはさらに愛される——三方良しのビジネスモデルです。
あなたの商品やサービスも、顧客の「すでにある日常」に静かに寄り添う設計ができないか。そこに、次の成長のヒントが眠っているはずです。

【本記事のまとめ】
1. Pokémon Sleepは「意志不要」の設計をした
意識でコントロールできない生理現象(睡眠)に報酬を設計することで、習慣化に必要な「続ける意志」を完全に不要にした。
2. IPとゲーミフィケーションは独立した2本の軸
IPが入口(ダウンロード)の有利さを作り、ゲーミフィケーション(報酬・損失回避・ハビット・スタッキング)が継続を作る。そしてIPへの愛着がゲームの報酬に価値を与える——この噛み合いが成功の構造。
3. 「顧客がすでにやっていること」から設計を始めよう
新しい行動を求めるのではなく、変えられない日常動作にそっと価値を乗せる——これが次の時代のマーケティングの基本姿勢。
よくある質問(FAQ)
ゲーミフィケーションは、どんなビジネスにも応用できますか?
応用できます。ただし「努力を促すゲーミフィケーション」と「既存行動に乗せるゲーミフィケーション」では難易度が大きく異なります。前者はモチベーションが落ちると離脱しやすいのに対し、後者は日常動作が続く限り継続されます。まずは「お客様がすでに毎日やっていること」を書き出し、そこに報酬や楽しさを設計できないか考えてみてください。
ポケモンのような強力なIPがなければ、同じ戦略は難しいですか?
IPの規模が小さくても、「既存の認知と愛着を新しい文脈で転用する」という発想は使えます。地域で長年愛されているブランド、特定のコミュニティで知られた人物、老舗の屋号——これらもすべてIPです。ゼロから認知を獲得しようとするより、すでに「知られている・好きだ」という資産を別の場所で活かすほうがはるかに効率的です。自社や自分の周りに「すでに愛着を持たれているもの」が何かを棚卸しするところから始めてみてください。
ハビット・スタッキングを自社サービスで実践するとしたら、どこから始めればいいですか?
まず顧客の「一日の流れ」を具体的に書き出してみましょう。起床・通勤・昼食・帰宅・就寝など、毎日必ず行うルーティンのどこかに、自社サービスの利用を「くっつける」ことができないか考えます。たとえば「朝のコーヒーを飲みながらアプリをチェックする」習慣を作りたければ、コーヒーに関連したコンテンツや通知のタイミングを設計するとよいでしょう。
*1|株式会社ポケモン|Pokémon Sleep 全世界累計2,000万ダウンロード突破のお知らせ(2024年6月26日)
*2|Sensor Tower|Pokémon Sleep 1周年分析レポート(2024年9月)。日本の平均MAUは約100万(2023年7月〜2024年7月)。日本のユーザーの年齢分布は25〜44歳が約70%。
*3|矢野経済研究所「2022年版 睡眠関連ビジネス市場の現状と将来展望」。国内スリープテック市場は2022年60億円、2023年105億円規模に拡大と予測。
*4|Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk. Econometrica, 47(2), 263–291. 損失回避を含むプロスペクト理論の原著論文。
*5|Clear, J. (2018). Atomic Habits. Avery.(邦訳:ジェームズ・クリアー著、牛原眞弓訳『ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣』パンローリング、2019年)。ハビット・スタッキングの概念はBJ・フォッグが原案を持ち、本書で広く普及した。
▼ 新人さんのためのマーケティング講座 Season5
私たちの身近にあるサービスや商品が「なぜこう設計されているのか」を、さらに事例で深掘りしていきます。
- 第1回:他人の家をホテルにするという「非常識」の壁を、Airbnbはどう壊したのか
- 第2回:なぜファミマの靴下は「緊急の代用品」ポジションを抜け出せたのか
- 第3回:検索すらしない「遠い顧客」に、TikTokはどう情報を届けているのか
- 第4回:マックはなぜハッピーセットにあんなにも力を入れるのか
- 第5回:きのこ・たけのこの「争い」は、なぜ人を楽しく戦わせることができたのか
- 第6回:腸のヤクルトから、睡眠のヤクルトへ。老舗企業のブランドが再び輝いた鮮やかなリフレーミング
- 第7回:Pokémon Sleepが2,000万人の夜を変えた、普通じゃないゲーミフィケーション(本記事)
- 第8回:近日公開
▶ Season1(全14回)はこちら|マーケティングの基礎概念からWeb広告の実務知識まで
▶ Season2(全15回)はこちら|PL翻訳術、弱者の戦略、広告評価、インタビュー技術まで▶ Season3(全20回)はこちら|現場で使える顧客心理・ブランド戦略・価格設計の本質
▶ Season 4【準備中】
岡 健作(おか・けんさく)
スタディーハッカー 代表取締役社長
1977年生まれ、福岡出身。同志社大学卒業。2010年に創業。「Study Smart(合理的に学ぶ)」をコンセプトに、科学的知見に基づく英語パーソナルジム「ENGLISH COMPANY」を設立し、人気ブランドへと成長させる。 事業拡大の要として、自らオウンドメディアとSNSの編集長を兼任。オウンドメディアは最大500万PV、Instagramでは月間700万PV、フォロワー27万人規模のメディアにするなど、広告費に依存しない集客モデルを確立する。現在はその知見を活かし、「企業の認知獲得の専門家」として、論理とデータに基づいた再現性の高いメディア戦略・ブランディング論を発信している。
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