
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season5
Season4までは、国内外の企業事例を通じてマーケティングの原則を学んできました。
Season5でも引き続き、私たちの身近にあるサービスや商品が「なぜこう設計されているのか」を事例で深掘りしていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
▶ Season 1【全14回まとめ】|▶ Season 2【全15回まとめ】|▶ Season 3【全20回まとめ】|▶ Season 4【準備中】
少し、意地悪な問いから始めさせてください。
Amazonが最短15分で商品を届け、SHEINが毎日5,000点の新作を出す2026年に、なぜ私たちは200万円のバッグを数年かけて「買わせてもらう資格」を積み上げながら待つのでしょうか。
エルメスのバーキンは、1984年の誕生から40年以上、一度も値下げをしたことがない。2026年2月に改定された定価はバーキン25で約201万円。*1 それでも中古市場では定価の2倍以上で取引されることが日常的で、需要は衰えません。
これはビジネスの失敗でも、奇跡でもありません。人間の脳に数万年前から刻まれた「生存本能」を、最も精緻にハックした戦略です。Season5の最終回は、マーケティングの最深部——進化心理学と希少性の心理戦——に踏み込みます。
- サバンナの記憶:なぜ「手に入りにくいもの」は「価値がある」と感じるのか
- 「アクセスの拒絶」がブランドを神話にする
- Season5 全20回の総括——マーケターよ、本能に耳を澄ませ
- よくある質問(FAQ)
サバンナの記憶:なぜ「手に入りにくいもの」は「価値がある」と感じるのか
話は、数万年前に遡ります。
アフリカのサバンナで暮らしていた私たちの祖先にとって、「滅多に手に入らないもの」には理由がありました。良質な水場、熟した果実、獲物の多い狩場——これらが「希少」であることは、「そこに近づけること=生存能力が高い」を意味していた。
希少なリソースを手に入れた個体は、生き延びる確率が高かった。だから脳は「入手困難なもの=価値がある」という回路を、本能レベルで焼き付けました。
問題は、この回路が2026年の現代でもまったく更新されていないことです。
私たちの脳は、200万円のレザーバッグの「機能」ではなく、その「入手困難さ」そのものを生存優位性のシグナルとして読み取ります。バーキンを持つことは、現代における「私はこれほど困難なリソースを確保できる個体だ」という、コストのかかる信号——進化生物学の言葉を借りれば「ハンディキャップ信号」——なのです。
ハンディキャップ信号とは、コストがかかるがゆえに偽造できない信号のことです。クジャクが重くて飛びにくい羽を広げるのは、「これだけのコストを払っても生き延びられる俺は強い」という証明です。バーキンも同じです。「これだけの時間・お金・社会的地位を投じても手に入れられる私」という証明として機能する。

「アクセスの拒絶」がブランドを神話にする
エルメスの戦略を冷静に解剖すると、その残酷なまでの合理性に驚かされます。
バーキンは正規店の店頭にほぼ陳列されません。購入するには継続的な購入実績(ヒストリー)を積み、担当スタッフとの信頼関係を築き、「紹介」を待つ必要があります。年間購入制限はひとり2枠まで。*2 どれだけお金を持っていても、「いますぐ買いたい」という意思だけでは買えません。
これを「不便」と呼ぶのは間違いです。これは緻密に設計された「アクセスの拒絶」です。
需要が100あっても、供給を20に抑え続ける。
残り80の「飢え」が、次なる神話を作る。
供給を絞ることで、バーキンは「商品」から「聖遺物」へと格上げされます。お金を払えば買える「商品」には値段があります。しかしブランドにふさわしいと認められた者だけが「授けられる」聖遺物には、値段の概念が存在しない。だから市場で定価の2倍になっても需要は消えない。
さらに巧みなのが、審査という仕組みです。スカーフを買い、小物を買い、少しずつ信頼を積み上げてはじめてバーキンへのアクセスが生まれる。この「選ばれるプロセス」自体が、顧客の帰属意識とブランドへの忠誠心を生み出します。排除されることへの恐怖と、選ばれることへの欲求——エルメスはその両方を同時に使っています。
vol.17のSHEINが「毎日5,000点の新作を投入し、在庫ゼロを目指す」戦略だとすれば、エルメスはその完全な対極にある。「不自由(フリクション)」を売ることが、2026年のラグジュアリーの本質なのです。

Season5 全20回の総括——マーケターよ、本能に耳を澄ませ
このSeason5で私たちは、20の事例を通じて様々なマーケティングの原理を見てきました。
- Airbnbは「他人の家」という非常識を、信頼の設計で乗り越えた
- SHEINはデザイナーの「センス」をデータに置き換えた
- Ankerはレビューを「クレーム」ではなく「無料のコンサルティング」に変えた
- ReFaは「たまの贅沢」を「毎日の習慣」にジャックした
- そしてエルメスは、人類数万年分の生存本能そのものをハックした
これらに共通するのはひとつのことです。
最も強いマーケティングは、「便利な仕組み」ではなく、「人間の根源的な欲求」に触れる。
効率化、心理的リフレーミング、データドリブン、体験設計——それらはすべて手段です。目的は常に、人間の「何かでありたい」「何かを守りたい」「何かに属したい」という、言葉にならない衝動に応えることです。
AIがどんなに進化しても、この衝動は消えません。むしろ、AIが世界を効率化すればするほど、「効率では手に入らないもの」の価値は上がります。バーキンが値下がりしないのと同じ理由で、「本物の体験」「選ばれる感覚」「困難を乗り越えたカタルシス」は、時代が進むほど希少になっていく。
新人マーケターのあなたへ、最後にこれだけ伝えます。
顧客の前に「高い壁」を築き、
それを乗り越えた時のカタルシスをデザインすること。
それもまた、マーケターの仕事のひとつです。
データを読む目と、本能に耳を澄ます感度。その両方を磨き続けてください。
Season5、全20回——お付き合いいただき、ありがとうございました。

【本記事のまとめ】
1. 「希少性=価値」は人類数万年分の生存本能
サバンナで「滅多に手に入らないもの」は生存に直結する価値があった。この回路は現代でも更新されておらず、バーキンの入手困難さはそのまま生存優位性のシグナルとして脳に読み取られる。
2. 「アクセスの拒絶」がブランドを商品から聖遺物へ格上げする
需要100に対して供給20を維持する。審査によって「選ばれるプロセス」を設計し、顧客の帰属意識とブランドへの忠誠心を生む。不自由(フリクション)を売ることが、ラグジュアリーの本質。
3. 最も強いマーケティングは「人間の根源的な欲求」に触れる
効率化・データ・体験設計はすべて手段。AIが世界を効率化するほど、「効率では手に入らないもの」の価値は上がる。「特別でありたい」という原始の叫びに耳を澄ませることが、マーケターの本質的な仕事。
よくある質問(FAQ)
エルメスの「希少性戦略」は、中小ブランドでも応用できますか?
「希少性」そのものは応用できます。ただし重要な順序があります。エルメスがまず美しいものを作り、品質で信頼を勝ち取り、そのうえで供給を絞った——この順序を間違えると「ただ在庫がないだけ」になります。まず「欲しい」と思わせる本物の価値を作ること。そのうえで、入手ハードルを設計することで「飢え」が生まれます。希少性は価値の代替ではなく、価値を増幅させる装置です。
「ハンディキャップ信号」の考え方は、B2Bのマーケティングでも使えますか?
使えます。高価格な導入コスト・厳しい審査・長い実績要件——これらは一見「障壁」ですが、それを乗り越えた顧客に「選ばれた感覚」と強い帰属意識を与えます。コンサルティングや高単価SaaSでも「誰でも使える」より「一定の基準を満たした企業だけが使える」という設計が、ブランド価値を維持することがあります。重要なのは、そのハードルが「本物の価値の証明」になっているかどうかです。
Season5を通じて、新人マーケターが最初に身につけるべき視点は何ですか?
「なぜ人はそれを買うのか」という問いを、機能や価格の外側に持つことです。Airbnbは「信頼の設計」、ジェラート ピケは「自愛の記号化」、エルメスは「生存本能のハック」——どれも機能ではなく人間の心理と本能に刺さっています。マーケティングは「売る技術」ではなく「人間を理解する技術」です。その視点を持つことができれば、どんな時代のどんな市場でも、本質的な問いを立てられるようになります。
*1|売るラボ「【2026年最新版】エルメス《バーキン》の定価」(2026年2月)。「2026年2月1日に価格改定されたバーキン25が2,013,000円、バーキン30が2,233,000円」
*2|ブランドオフ「【2025年最新】エルメス 入手困難ランキング」。「バーキンや人気バッグは年間おひとり様いずれか合わせて2点まで」の購入制限があり、購入には継続的な購入実績が必要
▼ 新人さんのためのマーケティング講座 Season5【全20回 完結】
Season5全20回をお読みいただきありがとうございました。Season6も準備中です。
- 第1回:他人の家をホテルにするという「非常識」の壁を、Airbnbはどう壊したのか
- 第2回:なぜファミマの靴下は「緊急の代用品」ポジションを抜け出せたのか
- 第3回:検索すらしない「遠い顧客」に、TikTokはどう情報を届けているのか
- 第4回:マックはなぜハッピーセットにあんなにも力を入れるのか
- 第5回:きのこ・たけのこの「争い」は、なぜ人を楽しく戦わせることができたのか
- 第6回:腸のヤクルトから、睡眠のヤクルトへ。老舗企業のブランドが再び輝いた鮮やかなリフレーミング
- 第7回:Pokémon Sleepが2,000万人の夜を変えた、普通じゃないゲーミフィケーション
- 第8回:なぜサントリーの45年赤字事業は、カテゴリーの「ちょっとずらし」で黒字化できたのか
- 第9回:なぜキティは「仕事を選ばない」のに、ブランドが毀損されないのか
- 第10回:なぜバンダイは、「子どもの玩具」を4年で3倍の1,200億円市場に育てられたのか
- 第11回:なぜ酒類の素人だったコカ・コーラが、サントリーやキリンの牙城を崩せたのか
- 第12回:なぜセブンのPBは、「安さ」を捨てた途端に売れるようになったのか
- 第13回:なぜドン・キホーテは、「どこに何があるかわからない店」で36年増収増益を続けられるのか
- 第14回:なぜ40代は、最新ゲームより「30年前のドラクエ」に熱狂するのか
- 第15回:なぜジェラート ピケは、「部屋着」を1万円で売れる贅沢品に変えられたのか
- 第16回:UberEatsは、なぜ人手不足の時代に大量の「配達員」を集められたのか
- 第17回:センスより、データ——SHEINが証明した「在庫ゼロ」への最短ルート
- 第18回:なぜAnkerは、広告も量販店営業もせずに充電器市場を制覇できたのか
- 第19回:導入2600施設。なぜ、リファは多くのホテルが「置きたい」と思えるブランドをつくれたのか
- 第20回:なぜエルメスは、「買えない」ことで世界一売れるブランドになれたのか(本記事・最終回)
▶ Season1(全14回)はこちら|マーケティングの基礎概念からWeb広告の実務知識まで
▶ Season2(全15回)はこちら|PL翻訳術、弱者の戦略、広告評価、インタビュー技術まで▶ Season3(全20回)はこちら|現場で使える顧客心理・ブランド戦略・価格設計の本質
▶ Season 4【準備中】