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欠けゆく体で読書しよう。

 

のまえ、なんかヒマだったので車谷長吉の『癲狂院日乗』を読んでいると、著者が図書館に行った際に眺めた情景のことが綴られていました。視力の不自由そうな高齢の男性のすぐ傍に、妻と思われる女性が付きっきりで座りながら、彼の耳元に顔を近づけて本を朗読しており、男性は頷きながら聞き入っている。そんな様子を眺めて、「読書とはあそこまでしなければならないのかと思った」というようなことが書かれているその箇所を読んで、むむぅ、と私は唸ったのです。


 

なんで唸ったのか。別にう○ことかのときも唸るし大したことじゃないんですが、思ったのが、私も加齢による身体能力の変化がすすめば、きっと何かしらのストレスと共存するような読書をすることになるんだろうなと。まああと10年以内には老眼なんかも進んでくるでしょうし、そのあたりがちょっと心配です。


読書も身体活動には違いなく、できれば能力に欠けたところのないヤングなうちに、読めるものはどんどん読んでしまったほうがいいのでしょう。しかし大抵のヤングは読書など後回しにし、東武ワールドスクェアあたりでイチャイチャするのを優先してしまう。で、いざ自分がいい年齢となり、そろそろ腰を据えて読書を嗜もうと思えど、目がショボショボして何が書いてあるのかわからんとかいう絶望を味わうのが、まさに人生ってものではないか。

 
遠藤周作の本ぜんぶ読む(宣言)


ただ、ありがたいことに読書の方法も多様化しましたので、視力低下により文章を追えないのなら、書籍朗読サービスを使えば、耳元で本の朗読をしてくれるパートナーを手に入れたも同然。ところが、耳もまた能力の欠落を伴いますし、難聴にでもなると、かえって朗読の音声がノイズ化して不快になるなんてことになる。目も耳も両方ダメとなれば相当しんどいですけど、仮に目がまるで見えなくなったとしても点字図書がある。読書はけっこうギリギリまで人と寄り添ってくれるものですね。


しかし、上でも書きましたが、それは欠けた能力を意識させられるストレスとの、共存的な読書体験となるのでしょうし、読書の方法が当人の身体性の低下と共に狭窄していくこと自体が、読書習慣からの離脱を迫ることになりはしないか。車谷長吉が、「読書とはあそこまでしなければならないのか」と書いたその心理は、このあたりにあるのではないかと思うのです。不自由さを引きずりながら、それでも本を読もうとするのを諦めていないその姿は、いずれ来たる自分の姿でもあるかと察したのかもしれません。

 

まあ、今から老後のことを心配してもしょうがないわけですが、いずれ不自由になることを先に想像しておきつつ、いまある能力に感謝しながら、やりたいことに情熱を傾ける。これが健全な暮らしぶりってもんでしょう。ただ、やりたいことの中で読書が一番になるって人はなかなかそう多くないはずで、大抵のヤングは読書など後回しにし、東武ワールドスクェアであたりでイチャイチャするのを優先してしまう。で、いざ自分がいい年齢となり(以下同文)

 

youtu.be

なんと2時間ありますこれ

 




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