こないだからクマにビビりまくりですけど、それさえなければ10月から11月あたりは私がいちばん好きな季節です。風景も空気感も、陽の光や風の感触まで品に満ちている。化け物じみた夏の暑さに疲弊した前頭葉が、秋の優しい静けさに癒されます。が、それも束の間、もうすぐ冬が来る。ていうかすでに朝の時点でかなり寒いので、ダウンジャケットをいつ出そうか迷ってるところです。
いきなり話が変わりますが、歳をとるごとにバランスの取れたものが好きになってゆくのを実感します。「中庸」を保っているものにますます信頼を置くようになってきたというか。それは今の世相も関わっているかもしれません。どこもかしこも二項対立的に争っている気配がある。男と女。白人と他人種。国家とテロ組織。右翼と左翼。高所得者と低所得者。若者と高齢者。テレビとネット。その他諸々。これってある意味、現代の紛争みたいなものでしょう。お互いの価値観や精神性に矛先が向かう紛争です。
そういう世の中を眺めていれば、この世に数多ある概念のいずれかを背負い、終わりのない論争に加わることこそ、この時代におけるプレイヤーとして活躍する意義があるようにも感じる人がいることでしょうが、それで犠牲になるのは自分の中のバランス感覚、つまりは中庸の精神ですよね。自分が敵視しているが故に、相手方の良い面を取り込めないというのでは、正直、この世における生存性は弱いんじゃないかとも思うのですが、どうでしょうか。

秋の草花の色合いはなぜこうも上品なのだろう
ちなみに「中庸」とは、
「過不足がなく、調和が取れていること。またその様子」という意味だそうです。その様子とあるから、中庸が取れているのは傍目からも分かるということでしょうか。それならば、秋という季節が上品に感じるのも、きっと中庸が保たれているからでしょう。その「ほどよい」気候的特徴により、人が思い思いの楽しみに浸ることのできる柔和さがありますしね。これが夏や冬ともなると、生存性にも直結するその気候的な厳しさが、中庸なんていう形容を阻みます。
まあ、そういう環境的な中庸は依存性も高いものだし、身を任せるしかありませんが、自分にとっての中庸となると、かなり意識的に作っていくものではないのか。なにが自分にとってちょうどいいのか。どんなものを自分に取り込み、負担にならないように調整していくか、という選択の上で成り立つものでしょうから。とはいえ、「俺は中庸を目指すぜ!!」などと意気込んでそうするわけでもない。結局、経験の蓄積によって要るものと要らないものが見分けられるようになったり、自分の体力がピークを迎えて大きな負担を背負えなくなる頃合いから、「中庸」というものが、ある種の生存選択になっていくのかなとも思うのです。
つまり、バランスが取れたもの、中庸を保っているものが好きになったというのは、人間としてのピークは過ぎたということか。なんたることでしょう。はてなブログなんてものにうつつを抜かしていたら人生のピークが過ぎてしまったぞ。いや、違うか。はてなブログそのものが人生のピークに現れたということかもしれない。ということで、皆様もこのまんま人生のピークをダラダラと書き記していきましょう♨️
むかーしむかし、会社の偉い人が飲み会の出し物でこれやり始めて一同ぽかーんとしたことがあった😳