寒波で家が雪に埋もれ、ここんところ雪かきばかりしていました。これが実に生産性のない徒労でして、午前中に雪をどかしてスッキリさせたのに、午後にまた降って元通りなんてよくあること。ふと、「穴掘り拷問」を思い出しました。半日かけて掘った穴をまた埋めさせる。これを何度も何度も繰り返しているうちに気が狂うってやつ。
雪かきには危険な無為の気配があるんですが、救いがあるとすれば、「風情」によるところが大きいかなと。まず雪景色に風情があるし、同じように雪かきしている近所の人と挨拶を交わしたりと、緩い一体感もある。加えて、子供たちが遠くで雪合戦をしていたり、どことなく「ハレ」の気配があったりもする。雰囲気が平和でキラキラしているんです。人間は舞台装置を整えてしまえば、騙されて働いてしまうってことでもあるか笑。
しかも、これは偶然か。雪かきしてるのは働き盛りのおっさんばかりでした。女性や子供は誰もやっていなかった。ごく近所での観察ですから深く捉えないで欲しいんですけど、それはともかく、なんで中年のおっさんって、雪かきの光景とあれほどよく似合うんでしょうかね。おっさんが距離を離してぽつぽつと雪道に点在し、静かに雪をかいている光景。そのまま抽象画にでもなりそうで、グッとくるものがあった。

これは家にある謎の木彫りのおっさん。
ところで、おっさんはいじられる存在としての印象がどうしてもあるものですが、実際のところ、世の中への溶け込みやすさとは、ある程度の年齢を重ね、おっさんになったぐらいでようやく得られるものではないか、と、私自身実感するのです。喫茶店やバー、サウナなんかにひとりで入るのでも、あんまり若いと周りから浮いて悪目立ちしやすいもので、これが年齢を経てしまえば、本人も周囲も大して気にすることがなくなってくる。それってきっと、おっさんになったことで「抽象化」を果たしたからでしょうね。
抽象化といっても特徴がなくなったわけではない。パッと見、「あ、おっさんや」とすぐ判別される印象があり、かといって、それ以上でもそれ以下でもない感じが、世間で柔軟な許容を得るパスになるというわけです。いま流行りのルッキズムのように、外見の許容性を狭めていくのとは真逆の感覚ですよね。加齢による変化を、必ずしも悪影響として看做さない価値観です。これで救われる人はたくさんいるはず。
加齢を潔く、公正に認めてくれる場があることや、それを新たに作り出すことは、我々にとって大切な備えになるはずです。でも、それは意図的に作り上げたコミュニティの形だけで存在するとは限らないかもしれない。それこそ、雪かきが似合うおっさんの如く、生活の営みの光景に、当人も意識しないまましっくり溶け込んでいくような領域もまたあるのだろう、なんて思った次第です。
雪かき中の脳内BGM。