今週のお題は「睡眠」ということですが、私は睡眠状態に入る1時間以上前から布団に潜り込み、iPadで動画を観たり、サブスクで音楽を聴いたり、無心で天井の一点を見つめ、「知らない天井だ」などと嘘をついたり、要するにぐだぐだするのが好きです。そうやっているうちに時間が過ぎ、寝る20分前くらいになったら読書に切り替えますが、あえて難解なのを選びます。いま読んでるのが新約聖書外典とかです。
一日働いて頭を使った頭で、そんな文章がうまく入るわけがない。それが狙いです。じきに脳が理解を拒み、「ほしさーん、もうあかーん。そろそろワイは寝ますわ。先にシャットダウンいたしますので〜」と言わんばかりの眠気が襲ってくる。ああ、ちょうどよかった僕も寝るよと従うようにして電気を消せば、あとは野となれ山となれ、というのは形容としておかしい気がしますが、そんな感じで眠りにつくのが我がルーチン。睡眠導入としてハズレがあまりないという感じです。
しかし、読むと眠くなるこの現象。食事をとってお腹がいっぱいになると眠くなる、あれと似たようなものだと認識しています。読書にも適量のカロリーがあり、それを満たすと頭は休むことによって消化しようとする。同時に、それ以上オーバーフローさせないため脳から眠る要求が下り、私は眠りに落ちる。メカニズムとして稚拙な理解だとは思うんですが、そういう仕組みで寝る準備が整うという「型のひとつ」ぐらいに捉えておくと、私としてはけっこう安心感あるかなって感じです。

司馬遼太郎の『アメリカ素描』より。「いきなりうまいとおもった」はちょっと使ってみたい。
ところで、読書にも「カロリー」があると書きましたが、読書の許容量って、その日その日でけっこう違うもので、単純に暇があれば増えるわけでもないのが不思議だなと思っています。読む本によっても違ってきますよね。分量が多いとか少ないとか、実はそこまで関係がない。ボリュームが多くても取り憑かれたように読んでしまう本もあれば、薄い本なのにちびちび読み進めるしかないのもあるわけですから。
で、大抵、するすると読めてしまう本の多くは文章がこなれており、さらに量もうまく小分けにしてあるといいますか、章立てが絶妙で配慮が効いており、キリの良いところまで「読ませられる」感覚がありますね。まるで書き手が、読者が受け入れられる文章量を想定しているかのようにです。そうなると、相手が食べられる量を把握して料理を作ることと、読める量を把握して文章を書くことには、通底する感覚があるのではないかと思えてくるのです。
まあ、書き手は「最初の読者」も兼ねるものです。どのくらいの分量なら自分が読むのに都合が良いか、自然と反映されているのかもしれませんね。そこはブログもまた同じで、書きつつ、同時に読みながら(推敲しながら)進めているわけで、その過程で自分にとっての「適量」というものを探っているところがあるのではないか。そして、適量ってそれほど極端に変化はしないものですから、だいたいいつものボリュームで書き収めることになるというか。てことで、脳が「ほしさーん、今日はこんなもんでいいんじゃないすかぁ」とさっきからうるさいのでこのへんで終わりますわ。バイチャ(死語)
町田康さんが文章を書けない人にアドバイスする動画おもろいで。
