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感想文:内村鑑三『後世への最大遺物』

 

どこからともなく、「何者かになりたい」とか「何者にもなれなかった」というような、承認欲求に関わる話題が定期的に流れてくることがあります。他者承認により自分が昇華されて、今ならインフルエンサーになったりするような、SNSにおける成り上がり的な感覚から生成される価値観だろうか、とも察するのですが、私自身はどうなのだろう。何者かになりたいのか。


そう改めて考えると、私がこうして文章を書いているのは、何かに備える性質を維持しているからではとも考えられるのです。それこそ自分の文章が注目されて商業的な性質を持つようになり、定期的に一定のクオリティを伴う文章を投稿するような日々に耐えうるように、というような習慣性を前もってトレースしているからこそ、ブログを続けられるのかもしれません。ある意味、将来への橋渡しといえますか。


ただ、そう思惑通りにいかなかったとて、少なくとも「遺物」としては大量の記事群が残るわけですね。私の存在が消えても、のちのち、私の残した文章を読んだ人がいるとしたら、「この人は文章を残して死んだ人やな」と思うかもしれず、死後、何者かと認められて偲ばれる余韻を残すことも可能なわけです。そんなこんなで前置きが長くなりましたが、今回は内村鑑三の『後世への最大遺物』の感想を書いていきたいと思います

 

 

 

内村鑑三にすれば、何者かになるとは「遺物」を残すこと。この世にレガシーを残して逝くことだと諭すでしょう。実際、彼が30代の時の公演内容をおさめたこの本の内容は、この世に何を残していくかについて熱を帯びています。それで、まずはいきなりお金の話をしだすのですが、実際、お金を稼ぐのも貯めるのも難しいのは昔も今も同じ。これも天運と才能に依るから、誰にでもできるものじゃない。ならば事業を残そう。お金をもっている奴の金を使って事業をするんだ、というような話になります。プロテスタントである鑑三の、まるで宗教家とは思えない語り口が、読んでいて軽快な寄席でも聞いているかのように面白い。


ただ、その事業だってなかなかそう後世にまで残せるものじゃありません。では思想を残そうという話になる。思想を書にしたためて、当人が現世で認められなくとも、次の世代の人間に莫大な影響を与えるような偉大な思想を残せばいいと。例として、幕末における王政復古の導き手ともなった頼山陽の『日本外史』の話なんかも出るのですが、すでに彼の話のなかで、現世で何者かになることが脇に置かれてしまっているんですね。つまり、キリスト者である内村鑑三にとって「何者かになる」とは、後世を良くする結果を残すのであれば、必ずしも現世で当人は名を知られずともいいという考え方のようです。語るべきものを残した者は、聖者のように、追々語られるというわけですか。


鑑三の話は続きます。そうして後世にまで耐える思想を残すのもまた難しい。その次に容易いものとして「教育」がきます。これは、当時の鑑三の立場そのものといえますが、しかし教育を他者へ施すこともまた一部の人の特権でもあるのです。鑑三はここまで「後世への遺物」について話を進めてきて、いずれも「最大遺物」とは見なしていませんでした。一握りの人間が、自己の能力や運によって成す結果は、どんなに立派でもそれは最大遺物ではない。鑑三は最後に最大遺物を説きますが、それは「生涯」だと諭すのです。


承認欲求が満たされることを望む人からすれば、これはごくつまらない結論なのかもしれません。ただ、逆説的な考え方として、我々は何者かにならずとも、現状、すでに何者かではないのか。妄想や夢物語ではない自分の現実を生き、役割をこなす。その線上において後世への眼差しを意識しながら生きること。これならば誰にでもこなせる可能性があります。なにより、自分が大成することを夢見るような、大きな物語からの脱却を図り、地に足をつけて生きることができますね。


大きな物語と書きましたが、何者かになるとは、そうなりうる物語を思い描くことと並行したものでしょう。ただし、物語は物語です。なんなら、その物語はどこかから借りてきたものかもしれない。本当の自分の物語はどうするのか。「何者かになる」という想像を働かせることは、実のところ、何者かになるその条件である「個の物語の所有」という課題を、迂回する役割を果たしているのではないか。そう考えると、すんなりと何者かになるには、観念して自分の生活を始めればいいというのが一つの結論ともなります。


結局、自分を何者かになる想像で包んでしまえば、自分が他の何者かになる可能性を恐れなくてもよくなるのです。畢竟、その人が恐れているのは、生きていく過程で「あらゆる何者か」になること、その確定のしなさからくるものなのかもしれませんね。さらには、「何者にもなれなかった」というような諦念も、どこか夢を見ていて、何者かになることを決めていなかっただけではないか。そこから自分の生活を始めることで、何者かになれると思いたいものです。というか、なるしかないのですね。それがあまりに惨めな地点から始めるものだとしても。


最大遺物がそれだというのなら、なんて悲惨なものだと思うかもしれませんが、人は生まれつき平等でもなく、すでに連綿と受け継がれた何かしらを背負っているものです。ある一族の系譜として、すでに何者かであることを物語る、過去の遺物の継承者ともいえるのかもしれない。そこから自分の遺物を残すことを意識するかどうかは別として、大した者を目指さなくても、生きてみる試み。これが存外、何者かになりうる境地ではないのか。そんなことを考えました。青空文庫で読めますので興味がありましたらどうぞ。

 

www.aozora.gr.jp

 




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