1.内心と外形が異なっている問題
職場で内心を思うままに吐露できる人は、少ないのではないかと思います。大体の人は、怒りを覚えたり、傷ついたりしながらも、それを外面に出すことなく、上手くその場をやり過ごしています。
しかし、外形的に上手くやり過ごしていると、後日、限界を迎えて心理的に苦しい思いを強いられていたことを問題視しようとした時、使用者側から「平気そうにしていたではないか」と反論されることがあります。
ハラスメントの場合、この使用者側の論理に対抗するための裁判例があります。
セクシュアルハラスメントに関しては、最一小判平27.2.26労働判例1109-5L館事件が、
「職場におけるセクハラ行為については、被害者が内心でこれに著しい不快感や嫌悪感等を抱きながらも、職場の人間関係の悪化等を懸念して、加害者に対する抗議や抵抗ないし会社に対する被害の申告を差し控えたりちゅうちょしたりすることが少なくないと考えられる」
との経験則を示しています。
横浜地判令7.3.25労働判例ジャーナル162-28 損害賠償等請求事件は、パワーハラスメントに関しても、この趣旨を拡張し、
「原告と被告Aは、使用者と労働者、弁護士と事務員という関係であり、原告が被告Aとの関係の悪化を避けるために、友好的な関係を築こうとすること自体、不自然ではないから、被告Aの指摘することは、被告Aによるパワーハラスメントやセクシャルハラスメントを否定する根拠とすることはできない」
との判断を示しています。
このように外形的な平静さと心の傷が矛盾しないことは、徐々にその適用範囲が拡張される傾向にあります。近時公刊された判例集にも、鬱病に罹患した労働者との関係でも、苦痛を相手に気取られないようにしているとの(医学的)経験則を認めた裁判例が掲載されていました。熊本地判令6.12.4労働判例1335-5 熊本県(玉名警察署)事件です。
2.熊本県(玉名警察署)事件
本件は自殺した警察官の遺族(母、兄、妹)が提起した公務災害民訴(労災民訴の公務員版)です。公務災害(労災の公務員版)認定を受けた後、熊本県を相手取って損害賠償を請求する訴えを提起したのが本件です。
自殺の業務起因性を立証するにあたっては、
心理的負荷⇒精神疾患の発症⇒自殺、
という因果経路を論証して行くことが基本になります。
この精神疾患の発症との関係で、本件の被告は、次のとおり主張しました。
(被告の主張)
「精神障害の発病及び時期を争う。本件自殺前に『うつ病エピソード』の発病を窺わせる症状及びその継続はない。むしろ、亡Aが9月9日にいわゆる合コンに参加したことは、うつ病エピソードの典型的な症状(抑うつ気分、興味と喜びの喪失及び易疲労性)と矛盾するものである。」
しかし、裁判所は、次のとおり述べて、被告の主張を排斥しました。結論としても、自殺と業務との因果関係を認め、原告らの損害賠償請求の相当部分を認容しています。
(裁判所の判断)
「亡Aの精神障害の発病の有無及び時期につき、D意見は、上記・・・のとおり、亡Aの精神障害の発病の有無及び時期につき、7月から8月にかけてうつ病エピソードを発病したとの結論を採るものである。そして、上記結論の根拠とされた事実関係は、上記・・・で認定した事実と隔たりがあるものではなく、その推認過程も不合理ではない。また、上記・・・のとおり、基金本部専門医師においても、具体的な事実経過に照らし、亡Aは8月末に何らかの精神障害を発病したと判断しており、D意見と整合する。さらに、E意見については、本件自殺直前における亡Aの精神障害の発病の可能性は否定できないとの判断を示したものであること・・・、F意見については、本件自殺の直前における精神障害の発病の有無につき一定の結論が記載されたものではないこと・・・からすると、E意見及びF意見は、D意見と矛盾するものではない。以上によれば、亡Aの精神障害の発病の有無及び時期について、D意見を採用するのが相当であり、亡Aは、遅くとも8月末までにICD-10のF32『うつ病エピソード』を発病したと認められる。」
「これに対し、被告は、亡Aが本件自殺の直前である9月9日の夜から同月10日の朝方にかけて合コンに参加したこと・・・を指摘し、こうした亡Aの行動は、抑うつ気分、興味と喜びの喪失及び易疲労性が最も典型的な症状とされるうつ病エピソードと矛盾するから、上記時期に精神障害を発病したものではない旨を主張する。」
「しかしながら、うつ病にり患した者のうち多数を占める軽症ないし中等症の者は、苦痛に堪えながらも相手に気取られないように努力して、滑らかに話をし、笑顔で応対するものであり、これにより、周囲の者は本人がそれほど苦しんでいると思わず、突然の自殺等に驚く原因になるとされていること・・・、不安・焦燥優位のうつ病では、家族を含む周囲の者が異常に気付きにくいのみならず、本人自身においても、本来の状態と比べて集中力等が落ち、不眠があったにもかかわらず、病識が欠如していることも多いとされていること・・・などの医学的知見によれば、被告が指摘する前記事情は、亡Aにおいて周囲の者に不調を気取られないように振る舞おうとする意識や亡Aにおける精神障害の病識の欠如に起因するものとも考えられ、亡Aが遅くとも8月末までにうつ病エピソードを発病していたことと必ずしも矛盾するものではないから、被告の上記主張は採用できない。」
3.鬱病の罹患者は苦痛に堪えながらも相手に気取られないように努力する
最二小判平26.3.24労働判例1094-22 東芝(うつ病・解雇)事件は、
「自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる」
との経験則を得示し、精神疾患を申告しなかったことを理由とする過失相殺を否定しました。
本裁判例は、責任論の場面においても、鬱病への罹患と、そう見えない行動が矛盾しないことを示しました。裁判所の判断は、使用者側の「平気そうにしていたではないか」との主張に反論して行くにあたり、実務上参考になります。