1.就業規則の周知性
労働契約法7条本文は、
「労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。」
と規定しています。
噛み砕いて言うと、就業規則の内容は、「周知」を条件に、労使間の労働契約の内容に取り込まれるという意味です。
ここで言う「周知」とは、実質的周知、すなわち「労働者が知ろうと思えば知りうる状態に置くことを指す。労働者が実際にその内容を知っているか否かは問われない。」(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、第3版、令5〕197頁参照)と理解されています。そして、「知ろうと思えば知りうる」といるためのハードルは極めて低く、就業規則の周知性が否定されることは、実務上、決して多くはありません。
しかし、近時公刊された判例集に、就業規則の周知性を否定した裁判例が掲載されていました。福岡地小倉支判令5.6.21労働判例1332-86 大栄青果事件です。
2.大栄青果事件
本件で被告になったのは、農林水産物の売買を目的としていた清算中の株式会社です。
原告になったのは、被告との間で期間の定めのない雇用契約を締結していた個人複数名(原告個人ら)と原告個人らが加入する労働組合(原告組合)です。
就業規則の周知性が関係するのは、原告個人らの請求との関係です。本件において、原告個人らは未払割増賃金(いわゆる残業代)と付加金、退職金等を請求していました。
裁判所は、原告らの請求の当否を判断する先決問題として、次のとおり述べて、就業規則の周知性を否定しました。
(裁判所の判断)
「前記第2の1(2)イのとおり、本件就業規則が存在するところ、これについては、作成の経緯が定かでなく、そもそも従業員に周知されたか否かも定かでないこと等からすれば、これを直ちに有効なものとして認めることはできない。」
「そこで、1か月の所定労働時間については、週40時間の法定労働時間を前提にして算定すると、173.80時間となる(計算式 40時間÷7日×365日÷12か月=173.80。ただし、小数点第3位以下は切り捨て。)」
・前記第2の1(2)イの内容
「昭和55年8月27日付の『時間外労働 休日労働に関する協定届』と共に保管されていた、『就業規則』と題する手書きの書面(甲3。以下『本件就業規則』という。)が存在する。本件就業規則には次の内容が記載されている。」
「(ア)就業時間は1時間の休憩時間を除き実働8時間とする(第15条)。」
「(イ)従業員が自己の都合により退職した場合の退職金の額は、退職当時の基本月給に、退職金支給基準率表記載の勤続年数別支給率を乗じた金額とする(第43条)。」
「本件就業規則に添付された退職支給基準率表によれば、退職時の基本給を基準としこれを1として、勤続年数18年の場合、支給基準率14.4、勤続年数25年の場合、支給基準率21.4となる。なお、上記退職基準率表は、本件就業規則とは異なり、基本的に不動文字で勤続年数と支給基準率が印字されているが、手書きで『※但し 基準の上限を20万円とする』旨が加筆されている(以下、この手書部分を『本件退職金上限の定め』という。)。」
3.作成経緯の不明な手書きの就業規則の周知性が否定された
以上のとおり、裁判所は、本件就業規則の周知性を否定しました。
しかし、本件は退職金請求との関係で、被告の側から、
「本件就業規則は未完成で全く使用されておらず、未施行のままであった。退職金は、令和3年1月12日に従業員に対して被告の解散の報告をした際に、支払を約束したものであり、未施行状態の就業規則にあった表を参考にして事前に金額を提示したものを過不足なく支払い、従業員がそれを受領して受け渡しも完了した。」
という主張が提示されていたという特徴があります。
就業規則は使用者側が作成、変更の主体となるため、周知性は原告労働者側から争われるのが普通です。しかし、本件では就業規則のとおりに退職金が計算されると困る使用者側が就業規則は未完成・未施行との主張を展開しており、通常とは主張・立証の構造が逆転しています。
仮に未施行だとしても自分で作っている文書にほかならず、このような場合に使用者側で周知性を否定することが許されるのかという疑問はあります。
とはいえ、手書きで作成されたいかにも怪しげな外観の就業規則の周知性が否定されたという前例は、今後、就業規則の周知性を争う場面においても、実務上参考になるように思われます。