8月17日 キミに贈る朗読会「いつか、眠りにつく日」観劇しました。
良い話だった。
大切な人に想いをキチンと伝えるという事だったり、未練を少しでも少なく、後悔無く生きようって事だったり、今日これを見たことで明日が少し変わるような、そんな朗読劇でした。
会場離脱後、家までの帰り道でアレコレ考えたことがあったので少しでも文字として残しておこうかと思いました。
先にさっくりと感想。
土屋さんは年齢幅の大きい二役を見事に演じ切られていたし、内山さんは声が可愛かった。笹さんはすごく面白い方だったし、山下さんはカッコ良かった。
はやまる(林鼓子さん)は今日も素晴らしいお芝居でした。
日常を謳歌する女子高生としての快活さ、突如自らの死を告げられた事への困惑、悲しみ、未練を解消する時間の中で感じる悔い、大切な人たちの想いを背負って生きる事を決める強さ。いくつもの感情の波があったけれど、しっかり演じきっていて心打たれるお芝居でした。
ここからが考えた事のメモ書き。
存在しないから存在する
人が必ず知る事で、人が必ず知れない事。それが死ぬ事。
人生は一度きりなんだから、死んだらそこでおしまい。故に死ぬ事を理解することは現実的に無理な話だと言っていいはず。
なのに幽霊や、あの世や、今回の物語では出てこなかったけど走馬灯や生まれ変わり。
人は死ぬ事を知れないのに、死に関連する言葉を当たり前のように理解している。
走馬灯は死ぬ間際に浮かぶものですって、死んだらそれを伝えられないのにどっからそんな表現が生まれ伝わったのか不思議でしょうがない。
調べたら比喩表現らしいけど。
何が言いたかったわけではないけれど、幽霊も走馬灯も、あの世も生まれ変わりも。
死ぬ直前から死んだ後の事は確かめようもなくその存在は怪しい、故に創作、作り話の中でしか存在することが無く非現実的で。
存在しないからこそ存在するモノなのかな?という何だか不思議な結びに着地しました。
理解と実感
1部アフターでの林鼓子さんのコメントで、「(死ぬことは)現実的でないけど身近」みたいなニュアンスの事を言っていた気がします。合ってるかな。
その言葉を聞いた時にオタクの脳内はこう考えました。
「わかる、けどわからない」
すっごいわかるんですよ、人が死ぬことって遠い話じゃないんです。
誰もが何十年も先に死ぬわけじゃない、明日にでも自分の知ってる人が死ぬかもしれない、それは頭では理解しているんです。
でも驚くほど実感が湧かない。いつ死んでもおかしくないなんてまるで思えない。
個人的な話です。
昨年、祖父を亡くしました。
近い近い血縁です。画面の向こうじゃない、自分の眼だけが映すとても身近な人の死、身近な死です。
晩年はかなり弱々しかったのを覚えています。それこそ、いつその日が来てもおかしくないと頭の片隅で思うぐらいには。
それを経験しても、今の私は人の死が身近である事を実感できていない気がします。
自分の身近な人が死ぬなんて、作り物の中の話のように感じます。
理解と実感には大きな差があるように感じますが、それは何の違いがあるんでしょうね。
明るくない事を色々考えましたが、私は元気です。
未練を解消する時間の中で、蛍は想いをちゃんと伝える事の大事さを見せてくれました。
「大切な人にはちゃんと想いを伝えたほうが良い」、それが私の思うこの朗読劇の本質でした。
私はあなたの事が好きですよ。
余談ですが、別れに重きを置いた話だったので観劇中ずっとヨルシカが脳裏にちらついていた事を告白します。
3人に想いを伝えなくちゃと奔走する蛍、最期に蛍に会いたいと願ったおばあちゃん、栞、蓮。
その姿に自然とエイミーの姿を思い出し、「今更君に会いたいと思った」の言葉が何度も頭に浮かぶ。
いつか、眠りにつく日。私は誰に会いたいと願う?
人生の価値は終わり方らしい。最初に未練少なく~なんて書いたけど訂正。
未練タラタラ108個、走馬灯で四十九日かかるような。
そんな人生に、なりたい。