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自分の中のドロドロした負の感情・・・特に、「怒れる自分」を慈しむこと。

※撮影:2024年10月。通勤途中、諏訪湖、庭、近所。
  カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
  絞り優先モード、WB:晴天/R:-3/B:-2、ハイライト:+1、シャドウ:+1、カラー:+2、
  DR:オート、NR:-4、シャープネス:+1、グレインエフェクト:弱。

自分と向き合い、自分を受け容れ、そしてよりよい自分に変わること、を目指して
いますが、なかなかうまくいきません。

かっとならないように、怒りの態度で周りの人を追いこんだりしないように、
傷つけてしまわないように、
怒らないように、ほがらかになるように、物分かりが
よくなるように。

そうなれるように日々努めているつもりですが、ちょっと何かあれば、熱くなって
しまったり、かっとなってしまったり、むきになってしまったり。

そのときの自分の態度によって、相手に、圧迫と、攻撃と、恐怖を与えてしまいます。

さらにそれをその場で指摘されると、そのことについて怒りを覚えてしまい、自分の
正しさを主張するという行動に出てしまい、いよいよコミュニケーションは泥沼、
最悪の形で終わってしまい、相手を傷つけてしまう。
冷静になれば自分の態度が悪かったと自分自身に身に染みて落ち込む。

つい先日もそういうことがあって翌日にその出来事を振り返っていたのですが、
いつものように落ち込んで反省しようとしていたんですが、そのときはどうしても、
自分が悪い、だけでは納得いかない気持ちが抑えられませんでした。

確かに自分の態度はきつく相手を追い込んでいたとの指摘はその通りなんですが、
だけども、そういう態度になってしまった背景・・・それは相手に対して真剣で
あること、
独りよがりかもしれないけど自分なりに相手にのことを思い、相手に
とってよかれと
思って提案していた、ということがありました。
そういう思いまで否定されたくない、と思い返しているそのときも、
指摘され否定されたときと同じくらいにふつふつと怒りが湧いてきてしまいました。

そこでふっと気づいたのが、この怒りそのものは抑えつけてはいけないのではないか、
と。


今までも過去同じことを繰り返してきましたが、その中で、
よい人になりたいと思いながら、実は心の奥底では、よい人になって
相手から受け入れられる、というやり方に強い拒否感をおぼえていたのかも、という
ことに気づきました。

熱くなること、真剣になること、その結果として強い、怖い、攻撃の態度を取って
しまうこと。

それは間違いなくよくないことです。
でもその熱くなることや真剣になることは、そのこと自体は自分の中に湧き上がる、
自分にとっては
自然で、そして大切な感情で、それ自体は僕自身そのものであること。
だから、そのことを否定される自分自身の大切な思いを否定されると感じて、
それを葬ったり、抑えつけるという事がすごく嫌なんだ、と気づきました。

自分の人生を振り返っても、今まで何度も同じようなことを繰り返してしまって
いましたが、
それもまた、ひどい態度ではあったものの、そのベースにあるのは
自分の一生懸命さ。

それまで否定して、よりよい自分になるということがどうしても受けれられなかった。
もっと自分の真剣さ、考えていること、思いそのものを分かってほしい、
そういう気持ちがわだかまっていて、だから、そのままの自分を相手に受け入れて
ほしいと
無意識にあって、変わろうと思っても最後の最後でいつも変われなかったの
か、と気づきました。


このことに気づいたときは、すごくショックを受けました。
どれだけ自分はわがままで、相手に依存していて、庇護を求めているのかと。
でも同時に、すごく納得もしましたし、そのことからこそ目を背けてはいけないの
ではないかと
思いました。
どのくらい自分の中でそういった気持ちが渦巻いているのか、この思いを思いのまま
いつもの
日記手帳につづると出てくる出てくる、自分の中のドロドロした思いが
マグマのように
吹き出しました。
ああ、これだけの思いが自分の中でとぐろを巻いていたのだな、と。
これは葬って、なかったことにして、否定して変わっていいものではないし、
変われるものではないものだな、と。

とはいえ、いくら最初の思いが真剣であれ、相手のことを思ってのことであれ、
今のままではそのたびに相手を傷つけ、相手を圧迫し、相手に恐怖を与えてしまう。
自分の思いを分かってもらいたいというところからは最も遠い結果になってしまう。
それは自分の本意ではありません。

変われないものを受け容れ、赦し、変われるものは勇気をもって変わる。
今までもそういう意識を持っていましたが、それはそんなきれいなものではなく、
僕の場合は、自分の中での根源にある客観的に見て嫌なもの、未熟なもの、
暗いもの、そういったものも、いや、そういったものこそ受け容れる、
という強烈なものだったのだと。

いい人になろうとずっと小さい頃からやってきたこと、ある意味ではそのことの否定
でもあります。

自分はいい人ではない、いい人にはなれない、無理やりいい人の鋳型にはめようと
して、
自分で自分をはめようとして自分でその鋳型に反発して、周りに怒りをまき
散らす。

そしていい人になれない自分に落ち込み、他のいい人を見て落ち込む。
自分で縛って自分で反発して自分で落ち込んで、という独り相撲をした結果が長い
年月に滓のように
たまっていました。
そのことをまず自覚し、いい人ではない自分を受け容れ、自分の中の怒りを否定する
のではなく
消化すること。
そして、それは相手に対して求めることではない。受け入れてほしい、とか、理解
してほしい、とか
相手に何とかしてもらうもの、ではないということも理解しました。

何かを感じたとき、そこに強い感情を伴うとき、とにかくそれを相手にぶつけない。
例えば手帳に書いてみる。
自分の感じたことをそのままに書く。書き続ける。書きなぐる。
怒りがあれば怒りをぶつける、そこに吐き出す。
そしてそれを見返しても否定しない、指摘しない、ダメ出ししない。
認めてあげる。寄り添ってあげる、その感情を抱きしめてあげる。

自分で自分によりそうということが自分が思っていた以上に必要なことでした。
身勝手ではありますが、ずっと長い間、誰もわかってくれない、という子供のような
思いがありました。

それを子供っぽいと一蹴せず、いつまでたっても大人になりきれない、いい人間に
なれないと
あきれることなく、それもまた大切な自分なんだ、と自分で慰めてあげる
ことが大切だったのだなと痛感しました。


自分はいい人ではないしいい人にはなれない、だからこそ、自分の中の呪詛を否定せず
自分で肯定して、
外には攻撃という形では出さない、そここそが自分が変わるべきこと
なのだと思いました。
今回の写真が何か穏やかなのがとても皮肉というか、たまたまの偶然がすごいな、と
思いましたが、これもめぐり合わせということで。




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