イエスが直面したユダヤ選民思想、やもめの謙虚について、エステルがナビゲートします。
人間関係の悩みは、優越感、劣等感に根ざすことが多く、律法家は優越感をもって大金を寄付します。しかし、銅貨2枚入れた貧しいやもめが、最も寄付したとイエスが説き、ルカ福音書を貫く考え方が示されます。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(ルカ21-22章)

レプタ銅貨2枚(100円程度)を寄付したやもめに対し、イエスは、誰よりも多く入れたという。直前の律法学者の寄付の対となる箇所で、律法家は多額の寄付により敬意を集めているため、実りが少ないといいます。

なお、ここは有り金全部寄付せよという教えではなく、天に積む宝が別にあるということ。

十字架降下 P.P.リューベンス
イエスは死刑囚なので、律法家にとって恥辱を受けた人物であり、ペテロにとって知り合いと思われたくないため、そんな人知らないと三度否定します。やもめの達は受難後もイエスに従い、正しく人物を見ていることがわかります。
ところで、統一教会文鮮明(イエス転生者僭称)は十字架は失敗と扱い、今度は政治的に成功させるというのですが、律法家のように、権力や資産を重視している様子がうかがえます。
この貧しいやもめは、必要以上を求めず、神の与えるもので満足していました。彼女は、神に満足と感謝をもって生活をしていたと思います。
- ユダヤ教 では、土の塵に神の霊が宿り、無から人が生まれたと考えます。自分が無の状態と、今の自分を比較して、自分を存在させる神の偉大さに感謝をします。
翻って現代では、競争に負けた貧困者は悲惨と教えます。
スキルを身につけなければ、勉強しなければ競争に負け、自己責任の結果を受けるとも。評価主義により、認められることを目指す余り、感謝を忘れ、自分の不足に目が向いてしまいます。日本人の宗教観では、神に幸運を祈ったり、因果応報カルマポイント制を教えますが、これは、律法家と同じです。教団信仰ポイントで幸運を貰うような、新興宗教の余地も生じてしまいます。その幸運だって、世間で認められたいものに集中します。
そうですね、清貧が理想といえども、評価を気にしたら、イエスの言う、神が装ってくださるという言葉が信じられなくなります。神はケチなので、自分の努力が全てとして、権力を求めるようになります。

今の時代、キリスト教的な考え方は合わないので、無理に信徒を増やす必要はないかもしれません。自分磨きをして、キレイな装いをしたり、稼いだり、ブランド品で身を包み、誇れる自分を目指しても良いと思いますが…
その結果、日本は世界的にも自殺者が多く、レールから外れたら不遇に落ち、マウンティングやハラスメントが日常的です。表面的には美しいですが、陰険な嫌がらせや社交辞令も多い。そこから、神がいたら不幸や貧困はないはずだと考えて無神論に行きつきます(さらに、コミュニティが平等を作るというのがマルクス共産主義)。この世界が存在し、自分が存在し、死への恐怖がイエスにより消えたこと、これら感謝が唯一の神の信仰です。人の謙虚な祈りの中に神はいて、奇跡や、立派な教えを説く者に宿るものではありません。





























































