以下の内容はhttps://sophie-mercure.blog.jp/archives/cat_376174.htmlより取得しました。


イスラエルはアブラハムの孫、アラブ人はアブラハム庶子イシュマエルの子孫と、イスラエルの兄エサウの子孫と伝えられる。

神はエルサレムをアブラハムの子孫に与えると約束し、ユダヤ教シナゴーグととイスラム教モスクが共存する。そして、モスクがエルサレムにあることが、イスラエルは許せずムスリムを挑発した。イスラム教徒は蜂起しガザを実効支配した。 これがハマス。

主君はその家来を呼びつけて言った。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
  • イスラエルシャロン首相がオスロ合意(1993)破棄のため、イスラム聖地岩のドームにてイスラエル管理宣言(2000)を行い、2006年にハマスがガザ地区与党になり実効支配開始してドロドロの現在。2000年前の同様のトラブルがヨセフス・ユダヤ戦記に記載。
  • ムハンマドは天使ジブリ-ル(ガブリエル)から預言者になるよう伝えられ、聖典旧約聖書とアブラハムの子孫という設定がある。まさか、キリスト教圏と接するとは思わなかっただろう。
過越向けアピール

4月19日早朝に、イスラエルからイランのイスファハーン(エスファハン)へのミサイル砲撃がありました。この砲撃の理由は不明ですが、視覚的効果のためで、寸止めという意見が多数です。
※ 今回はパレスチナ自治政府

CNN
CNN  Fri April 19, 2024/Iran’s military response will be ‘immediate and at a maximum level’ if Israel attacks, foreign minister says
※ 攻撃は最小限に抑えられたとのこと

イスラエル政治情勢では、ベニヤミン・ネタニヤフ首相(リクード党)、ベニーガンツ(国家統一党)、極右シオニスト党連立政権が与党ですが、弱体政権のため、全員が必死に戦線を維持せざるを得ない状態です。

ベニー・ガンツ氏は人気のある退役軍人であり、ネタニヤフ首相以上の支持がありますが、これは戦時中のゆえんのもの。
netaniyah
3 Mar 2024 The times of Israel Netanyahu said fuming over Gantz trip to US planned without his approval
※ ガンツ(退役軍人の閣僚)は面従腹背状態と仲間割れ状態でそっぽ向いている

4月1日のシリアのイラン領事部爆撃(VSイラン)、4月14日のイスラエルへの報復攻撃(VSイスラエル)、その後のイスラエルからイランへの攻撃であって(VSイラン)、いずれも正当防衛という名目のみで攻撃しています。

攻撃が急なのは、ネタニヤフ政権介在での人質解放が進まないため、過越前(4/22)なので、ユダヤ教礼拝の場が低調になるおそれがあり、支持率下降基調を覆したい思いから、極右シオニスト政党の口車に乗って、イラン爆撃をせざるを得なかったと考えられています。

ユダヤ教原理主義と呼ばれる極右シオニスト党は、議席数は少ないものの、ネタニヤフ与党のキャスティングボードを握る政党です。今はネタニヤフ首相は汚職事件により取り調べを受けているため、極右政党までそっぽ向いて、政権が失速したら、首相が刑務所にぶち込まれてしまいます。

少しでも政権運営を有利にするため、ネタニヤフ首相は司法改革として、政府与党決定への最高裁の拒否権停止強行採決をするなど、極右シオニスト党の言うことを聞きつつ、自分の延命のために必死に議会対策をしています。

さすがにエゼキエル戦争はない

エゼキエル書38章では、マゴグ(ロシア)、ペルシャ(イラン)、クシュ(バビロニア)、プト(エジプト)がイスラエルに馬に乗って盾と剣を持って、イスラエルを急襲した後、地震、疫病、流血、大雨等々で神により反撃支援をするといいます。
ノアの家系図

ノア家系図 マゴグ、クシュ、プトらの名前が連なる(創10他)

これらの国名はノアの孫、ひ孫らの名前なので、少し違和感がありますが、全人類という建て付けにて、また、性懲りもなく、人類が大雨で滅ぼされるという暗示を含んでいます。また、人名の年代から、かなり古い預言書なのかもしれません。

gog
 英語圏で"Ezekiel War"で紹介される例多数。日本人以上に予言好きが多い

ユダヤ教では、イエスではなくユダヤ人が人の子なので(諸説あり)、エゼキエル書にあるように、神がユダヤ人を超科学兵器で助けて世界戦争を勝ち抜き、エルサレムを永遠の都にできると考える人が一定数います。

神の12軍団を従えた人の子が世界征服すると、ユダヤ人は考えていたので、イエスがキリストだと主張したとき、預言書と違う!お前なんか救世主じゃない!と十字架刑にかけました。このような経緯を踏まえると、エゼキエル書は過去であるし、イエスを十字架にかけたユダヤ人と、全く同じ発想で予言を考えるには難があります。

ユダヤ人にとって戦争は嫌であるし、仮にロシアとイランに天からの硫黄の火の雨が降れば、喜んでる場合ではなく、国際的に被災者支援活動が行われます。ユダヤ人の敵が硫黄で焼かれて、ああ、やった!と言う人の方が非人道的です。


アリーと神の獅子

シーアの事実上の始祖のイマームであるアリーは、アッラーの獅子(アサドラーク)と呼ばれた、やたら白兵戦に強い人物です。子のハサン、フセイン、孫のザイードは、好んでシーア家系の男の子に付けられ、強い子に育つようにと育てられます。
※ シーアは「派」のことなので、シーア派=派派とすると変なので、ここではシーアとしています。
神の獅子
Imam Ali and Lion 滅法強かったため神の獅子と呼ばれる

日本人でいえば武蔵とか十兵衛とかベジータみたいな名前で、掃除の時間に、柳生新影流!とかかめはめ波!とかいって、ホウキ持ってチャンバラばかりやってる男子が、勉強もしないで決勝戦に残ったような組織がシーアに作られたりします。

歴史的にはシーアを取り込もうとする国も出現しますが、オラ、強いヤツと戦いたいんだ!と空気読めない言動を取るし、領土拡大が一服すると、ちょっとしたことで裏切ることから、使い捨ての駒のような扱いを受けるようになります。

イラン指導者ハメネイ師は、名をアリーといい、これも神の獅子のような、強い男の子に育って欲しいという両親の希望が込められた人です。現在、シーア軍(イスラム革命防衛隊)のもとに、コッズ(イスラエル滅殺隊)、ハマス、フーシ、ヒズボラが傘下にいます。

khamenei
Ali Khamenei -Wikipedia

元々、アラビア地域は、油田以外は裕福な地域ではないので、戦争がなくなってしまうと、武装組織は生活の糧を得る手段がなくなってしまいます。旧約やクルアーンでは、戦国時代の信仰が記録として残っているので、信仰深い兵士という公務員として、裕福に生活できる手段を得ることができています。

おそらく日本のガザ地域への支援も、ハマスの私腹を肥やすのに役立ち、ハマスが中抜きして分配する立場にいるため、支配体制が非常に強いようです。

悟空
すごく共感するセリフである 一銭にもならないことばかりの夫は困る

米国でも、兵士になるしか就職先がない貧困地域があり、一種の雇用安定機能の面を軍隊が担っています。イスラム圏では、海賊か兵士でしか生活できない人たちがいて、少年漫画の主人公達が、実際には生活費を稼げない旦那衆のような、ツブシが利かない落ちぶれてしまうリスクがあるのが現代社会です。

イスラム圏の常備軍は国家を傾かせ、税金が高すぎるという理由で、常に後進に追い落とされる歴史を繰り返しています。近代のオスマン帝国は、イエニチェリという職業軍人既得権層が幅を利かせて、欧州に歯が立たないくらい弱体化してしまいます。
イエニチェリ
現代のイエニチェリ行列祭り 維持コストが高そうである

ネタニヤフ政権も、ハマスも、シーアも、全員、この紛争がなくなってしまうと、地位を追われてしまうので、今は微妙に居心地の良い戦闘態勢にあり、これを真に受けて世界戦争に発展するには、余りに大義がありません。第三次世界大戦になるほどの材料としては弱いです。
イスラム勢力圏
イスラエルとスンニの和平関係図(再掲)シーアとイスラエルは関係が良くない


狭き門とマイノリティ-神は人混みの中に見つからない

狭き門と、大きく広々として、立派な門の二つが、人の前にあります。

狭き門
   見つけにくく狭い門

大きくて広々としている門は、立派な御利益があって、立派な権力者がいて、よさげな教えを唱える人を示し、これを思考停止状態で信仰する信徒です。思考停止して「主よ、主よ」といっても、神から「お前ら知らない」と言われてしまいます。

ユダヤ人達は流浪の民でありながら、バビロン捕囚を経験しながら、神から離れずに残った民です。

先祖の受けた奴隷という立場は、支配を客観的に観察でき、権力は人間の暴力性と恐怖を応用したものと理解でき、神の支配とは全く異質であることを痛感できます。また、バビロン捕囚の頃から、ユダヤ人は自分たちの神は世界の人々をも創造したと考え始めます(ヨナ4:11)。

初期教会では、地下礼拝堂に集まり、迫害を受けたキリスト教徒達は、ローマのインペラトールが、パウロ書簡の肉の業(ガラ5:21)を追求するような、くだらない人たちだと客観視して、権力と一緒に肉の業を十字架にかけ、霊の九つの実(同22)を求めるのだと考えるようになります。

イスラエル国家は大きな門指向なので、シオニストは何回チャンスが来ても、「政治的成功と失敗」という、同じ結論を選んでしまうようです。イスラエル−イランの紛争は、聖書の預言と異なるもので、グダグダな方向に進んでいきそうです。

悪魔の証明-プロバチオ・ディアブリカ

 土地の所有権を、権利書、古文書とひもといていくと、際限なく文書が出てくるので、土地所有権を証明するのは、悪魔が存在しないことを証明するような、難しさがあります。

 では、2000年前にユダヤ人がシナイ半島に住んでいて、ローマ・ユダヤ戦争で土地を追われ、東ローマ、セルジューク、マムルーク朝、オスマン帝国が支配していたところに、英国外務大臣がユダヤ人に「パレスチナへ国民的郷土樹立に最大限努力しますよ」と言って移住する場合、誰の土地になるのでしょう(1915:バルフォア宣言)。
悪魔


宗教の蹉跌

 オスマンの首都イスタンブールは黒海の出口にあり、ロシア海軍を封じる要所です。クリミア半島は軍事的要所で、ロシアののど元にも関わらず、テュルク人が居住し、ギリシア正教の影響圏です。ロシアと敵対するイギリス、フランス、ドイツは、ロシアがオスマン帝国から奪取すると、返還の圧力を強め、これがクリミア戦争(1853-1856)になります。
クリミア
 クリミア戦争はナイチンゲール(1820-1910)が従軍し、直後にアルフレッド・ノーベル(1833-1896)がダイナマイトを1871年に発明するなど、戦争が近代化する前夜の時期です。オスマン帝国は完全に劣勢に転落していきます。

 バルカン半島はハプスブルグ家とロシアとオスマンを抑えると、セルビア王国が独立し(1882)、ボスニアをハプスブルグ家が編入すると、カトリック国がイスラム教徒を弾圧する構図ができあがります。セルビア人をロシアが汎スラブ独立と正教会信仰を煽り、ヨーロッパの火薬庫の名に恥じない紛争地域へと化していきます。サラエボ事件(1914)前夜です。


ドイツにおけるユダヤ人迫害の発生

 第一次大戦期(1914-1918)には、ドイツに多数のユダヤ人難民がいましたが、これはロシアのクリミア戦争敗北以降に強まった汎スラブ主義の影響から、避難する形で移住したもので、ロシアは隣接する国のスラブ民族市民に対して、独立心を煽るようになっていきました。

 スラブ民族の少ないドイツは、ユダヤ人にとって居心地が良かったらしく、1910年頃まで、ロシア、ポーランドから逃避するようになります。ところが、第一次大戦でドイツとイギリスが膠着した時期に、ユダヤ人ロスチャイルド家に対して、イギリス外務大臣からバルフォア宣言(1917年)が発行され、パレスチナに自国領を持つために、ドイツを攻撃する側に調停協力した形になったため、終戦後、ドイツ国内でユダヤ人に対する迫害が始まります。
バルフォア宣言
 このバルフォア宣言は、第一次大戦において、米国を英国側陣営につける目的で発せられているため、イスラエルに対して米国がバックアップする形で関与し、その後は産油国として存在感を増していくアラビア諸国に対して、米英メジャーが交渉する後ろ盾として変化していきます。

 その後の中東戦争が繰り返され、第四次中東戦争(1973)において、イスラエルに対してエジプトやシリア等のアラビア諸国が互角の交渉力を持つようになり、これが日本のオイルショックを引き起こします。

サイクス・ピコ協定(1916)からローザンヌ条約(1923)へ

 オスマン帝国を解体し、列強が好きなところを植民地にして、パレスチナにイスラエル建国を認めるという、ロシア、イギリス、フランスの密約で、ロシア革命(1917-1922)で帝政ロシアが倒れると、ソビエト連邦共産党は帝政ロシアの批判のために、密約を公表してしまいます。

 イギリス、ロシア、フランスの委任統治領の残りは、トルコ、ギリシャ、アルメニアで分割、クルド人は自治領を認めるという内容ですが、ローザンヌ条約(1923)では、トルコが交渉を一部優位に進めた結果、クルド人の自治領がキャンセルとなります。
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憲政体制への移行

 憲法は国家に対する抑止力を目的とし、議会は予算の過剰支出の抑止を目的とします。憲政体制への移行によって、無制限の軍事活動や軍事支出の抑制をして、国内紛争や他国への紛争介入を防ぐようになりますが、日本は帝政を温存していたプロイセン憲法を参考にしていました。

 各国は重火器類を増強していき、兵士の戦いから都市や城塞を破壊するようになり、目的に対して被害が不釣り合いになっていきます。民族や宗教の独立を外国から煽るようになり、大国が介入して占領する紛争が増え、安全保障の方法が変わっていきます。

 民族、宗教国家はリスクでしかなく、法治国家として、国家全体に及び管理をゆきわたらせる憲政化が進み、帝国主義、宗教弾圧に対する抑止力を備えることで、自国内の紛争と大国の介入を抑制するような国家体制が作られていきました。

 植民地を維持することで、領内の紛争の対処や他国の介入の余地が生じてしまうため、世界的に植民地を手放す流れが起こりはじめ、憲政と議会という、暴走の抑止機構の範囲で国境が決定していくようになりました。 

 神よ、帝国を失う皇帝を赦し給うな。
 コンスタンティノス11世はオスマン軍の中に消えていきました。コンスタンティヌスはビザンティオンをローマの首都とし、その終焉もコンスタンティヌスでした。

 オスマンスルタンのメフメト二世(1432-1481)は、コンスタンチノープルを包囲し、短期決戦で1453年に陥落させました。矢継ぎ早に地中海を攻略し、ヴェネチアを1480年に臣従させることに成功します。オスマン帝国を支えるイエニチェリの鉄砲隊の力は強く、当時、最強を誇った騎馬隊をなぎ倒していき、科学技術の優位性が国を左右する時代でもありました。
コンスタンチノープル陥落

イスラムの寛容

 大国を領土に編入する場合、民族、宗教、統治体系を温存した方が安定します。メフメト二世は、コンスタンチノープル総主教を自ら叙任し、都市への略奪も禁じました。司法制度も出身国のものを適用し、この制度は治外法権と言われますが、外国人は外国の法で裁くことにしました。

 東ローマ末期は、ローマ皇帝よりもスルタンに臣従する方がマシだと考える住民も多く、円滑に領内にはオスマン統治が浸透していきました。オスマン帝国は、モンゴル帝国末裔のカザン、クリミア領も編入し、多民族・他宗教国家として、地中海の肥沃な地を独占していき、1517年にマムルーク朝を滅ぼすと、地中海はオスマンの海となります。

イエニチェリ
 イスラム教は旧約聖書を聖典とし、ムハンマドが統治する過程で形成されていったもので、異教徒に対しては金銭で解決させるなど、統治に慣れた一面がありました。

 イスラムの寛容で目を見張るのがマムルーク朝です。初代女帝シャジャル・アッ・ドゥル( -1257)はカリフの後宮妾で、以後、軍人奴隷(マムルーク)がスルタンに就きます。スンニ派というのは、遊牧民が奴隷契約をして、そのまま君主になり得るという、特殊な構造があり、奴隷解放をする主人は天国行きが決定し、出世した主人のチームは、チームごと高い地位を得ることになりました。当時はペストで死が身近であったため、常に奴隷の流入を必要とし、兵士の力が国の力となっていました。

 しかし、マムルーク朝の騎馬隊は、イエニチェリの鉄砲隊に駆逐されていきます。
シャザル

錬金術と産業革命

 スコラ学によってもたらされたアリストテレス哲学では、世界は不完全であり、4大元素に、星と魂を構成する第5元素アイテールが地上に流出し、より完全に変化していくと考えていました。地は最初に地上に現れた物質で、最近に現れたものが風であり、いずれ、アイテールが注ぐことで、完全になっていくといいます。完全に近いものが金で、卑金属もいずれは純金になり、人間の魂は永遠に消滅しないとされます。

 この研究はルネサンス期のキリスト教圏を熱狂の渦に巻き込み、フラスコや試験管など、様々な実験道具を作っていきました。何年研究を続けても金はできませんでしたが、水に火を通すことで力を生み、その力を蒸気機関として利用するようになります。
錬金術
 しかし、カトリック教会では、錬金術は悪魔の学問として異端審問は判断し、魔法の一種のようにみなしていました。蒸気機関として産業用に実用的にしたものは、ジェームズワット(1736-1819)ですが、イギリスの国教会圏から外れた、スコットランドグラスゴー大学で蒸気機関を開発し、瞬く間に英国全域に蒸気機関が広まっていきます。人類は新たな生産力を得て、耕作能力を高め生産力が上がり、人口が増えていきます。土地を囲い込んで毛織物工場を作り、大量生産された物資を供給する植民地が必要になっていきます。

 こうして18世紀に入ると、西欧諸国とオスマンの科学力は逆転し、どうしてもオスマンは勝てなくなってしまいます。1768年、1792年には露土戦争で2連敗し、重病人の様相を呈していきます。
ワットの蒸気機関 【ワットの蒸気機関】


国家宗教の死

 コンスタンチノープル正教会キエフ支部はロシア正教となり、1480年に東ローマ皇帝家のカエサル血縁としてツァーリの治める、モスクワ・ツァーリ国ができます。

 モスクワ・ツァーリ国は1721年にロシア帝国と名を変えますが、この頃には諸候国連邦国家がモンゴル帝国の属国から独立し、次々とモンゴル帝国の旧領を吸収していきます。モンゴル帝国はイスラム教に傾き、東ローマ末裔家はロシア正教会を国教とします。

 不凍港を獲得するために進軍を開始し、かつてキリスト教とイスラム教の境界線であったポーランド、リトアニアで、カトリックと正教会の戦線を開いていきます。
ロシア領

 ロシアから防衛するために、オスマン帝国はイギリスと同盟して国内を近代化し、法治国家の治外法権を内政干渉の材料とされ、領内の宗教の平等を求め、植民地の様相を見せるようになりました。

 各国とも帝国化が進んでいくことで、領内に様々な宗教と民族を抱えるようになると、身分と貧富の差、宗教と身分の差が紛争化させることになりました。鎮圧のために費用が必要になり、他国から介入されると領土を失うことから、政教分離が国家の安定化に必要になっていきます。宗教は国境線として機能させることが、非効率になっていきます。

<第三の男>
 イタリアではボルジア家三十年間の戦火・恐怖・殺人・流血の圧政の下で、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどの偉大なルネサンス文化を生んだ。


 ルネサンスは、ローマ教皇庁において、ローマ帝国が大国たり得た理由の追及を研究し、大金を使って古代ローマと東ローマを再現し、自壊していく時代です。それだけ資金を投じたにも関わらず、コンスタンチノープル陥落以降、ヴェネチアは没落していき、地中海はイスラムの海になっていきます。

十字軍(1095-1272)と聖遺物

 アカデミアのソクラテス(BC470-BC399)の後継者プラトン(BC427-BC347)は、身内ひいきがひどかったため、アリストテレス(BC384-BC322)はアカデミアを見限り、マケドニアのアレクサンドロス(BC356-BC323)を訪れます。この選択が功を奏し、ローマでキリスト教会がギリシャ哲学が弾圧される一方、オリエント地方でアリストテレス学問体系が発展していきます。イスラム圏でアリストテレス学問は生き続け、イブン・シーナという医学体系を作ります。
アリストテレス 【アリストテレス:Wikipedia画像】

 東ローマが1000年も続いたのは、中東地域の肥沃の地によるもので、エルサレム巡礼者が帰国すると、中東地域の科学の先進性と裕福さが伝えられ、旧西ローマ地域で東ローマへの羨望が集まっていきます。新興セルジュークに、エルサレムを含む領土が蚕食され、一方で、ローマ教皇庁や神聖ローマ帝国は信仰心を煽り、エルサレム奪還と同時に、コンスタンチノープルの上位に立とうと画策します。

 1096年当初、数で圧倒する十字軍がエルサレムを奪還し、東ローマの旧領土を取り戻します。しかし兵站が存在しないため、略奪が横行し、十字軍国家は東ローマと領土争いを始めます。また、エルサレムの手柄を確保するために、すでに1000年が経過して風化しているはずの聖槍や十字架が多数発見され、いずれもローマ教皇管区に聖遺物として持ち込まれます。
十字軍
 第4回十字軍ではコンスタンチノープルをヴェネチア商人が占領し、亡命王朝とヴェネチアの抗争期に入っていきました。亡命王朝はコンスタンチノープルを1261年に再度奪還しますが、この時点で、貿易権がヴェネチア商人に握られてしまい、国庫が空のまま統治をして衰退していきます(1261-1453)。

イスラム・モンゴル帝国

 13世紀に成立したモンゴル帝国は、1240年のポーランド侵攻から膠着状態に陥り、南側は東ローマに侵入し、この前線がイスラム教圏とキリスト教圏の境界になっていきます。

 モンゴル帝国は、多民族・多文化を排他せず、吸収・習得する形で国家運営を行います。ユーラシア大陸全域にわたる帝国を運営するために、宗教の解釈に踏み込んで介入することに関心を持ちませんでした。

 モンゴル帝国下のテュルク人オスマン一世が独立していきますが、中央アジアの遊牧民は、より肥沃な地を求めて移動していくため、何度も何度も、津波のように東ローマやポーランドへ侵攻していき、ついに1000年以上も続いたビザンチン帝国は、1453年にイスラム教徒に首都を明け渡します。
モンゴル進軍

ローマ教皇によるローマ復興とペスト・パンデミック

 西ローマ教皇庁は、荒れ果てていたローマの復興のため、かつて存在した、ローマ帝国の情報を東ローマに求め、多くの文献に基づいて、大帝国となった歴史が研究されていきます。また、東ローマの建築様式を吸収し、莫大な予算を使い、天国の如くに荘厳なコンスタンチノープルから、競うように財を投じてローマを装飾していきます。

 スコラ学という、不明なことは、みんなで議論して決めようという神学は、イスラム・アリストテレス文化はキリスト教文化に統合できそうだと考え始めます。トマスアクィナス(1225-1274)は、神の理性が哲学を理解させてくれるという理屈で、アリストテレス学問体系を神学の中に強引に押し込みます。このような文化の平行輸入活動を、ダンテ(1265-1321)は著作の中で「ルネサンス」という言葉で表現しました。
トマスアクィナス 【トマス・アクィナス】

 大きな資金が動く時代は、大きな資金を動かせる人物、特にスペイン名門ボルジア家のアレクサンデル6世(1431-1503)が、金で枢機卿を買収していき、ローマ教皇庁を金と色で染め、キリスト教会を政治に傾倒していきます。教皇庁の財政出動と低俗化に歯止めがかからなくなり、芸術に対して湯水の如くに財を投じていきます。

 同時期、モンゴル軍がもたらしたペストパンデミックが広がり、神に救いを求める人々が、全力を使って建築物に経済と精神を注ぎ込みます。ローマ教皇も政治抗争を繰り返しながら、莫大な資金を投じていくうち、レオ十世の頃に、教皇庁の金庫が借金まみれになってしまいます。

 万事窮する教会は、神への救済を求め、サン・ピエトロ寺院建築を開始し、その費用に充てる資金として贖宥状の絶賛キャンペーンを始め、人間の罪ポイント制度を煉獄というシステムに入れ込み、寄進ポイントによりキャンセルアウトさせるシステムを考案します。
旧サンピエトロ寺院


カトリック教会の没落と正教会の四散

 アタナシウス三位一体説に基づくキリスト教宗派のローマ教皇組織体系をカトリックといいます。国家は衰退しても、キリスト教は残り続けたため、国王の命令には従わなくとも、教皇回勅政令に従う信徒が多数いました。教皇庁が王を破門すると王が困ってしまう事態まで起こり(カノッサの屈辱:1077)、加えて、異端審問という司法機能まで持ち始め、強大な権力を手中に収めていました。

 資質のない国王や教皇であっても、教会の後ろ盾により国家運営ができるため、国家はカトリックと一体化していきます。しかし、それはキリスト教圏という前提であり、1453年にコンスタンチノープルがオスマン帝国によって陥落すると、正教会は消滅し、ヴェネチアの地位が低迷し、オスマン帝国が地中海を手中に収めるようになっていきました。コンスタンチノープル陥落後は、キエフ支部がロシア正教に成長していきます。
コンスタンチノープル

結論

少し話が長いので、まず、簡単に整理すると、こんな内容です。
  • イスラム国家はエジプト・シリア領有以降に裕福になった
  • イスラム教団は、派閥間主導権争いが激しい
  • ムハンマドはイエス(イーサ)三位一体を否定している
  • ロシア、イギリス、フランス、アメリカは、自分の都合で関与し争乱を招いた
現代では、イスラエル建国の干渉、米ソ冷戦の対立での抱き込み、外交工作による混乱と、争いやすい民族間紛争に肩入れし、ややこしいことになっています。

中世欧州では十字軍を派遣しますが、カトリック教会が諸侯への影響力を強める結果となり、領主への指揮権を発動するようになります。

キリスト教とイスラム教で教義の一致が得られるか

困難。
ムハンマドはイエスの三位一体を否定しているため、カトリック、プロテスタント、オーソドックスのいずれも一致が得られません。また、キリスト教徒の信仰は不十分なのでムハンマドが遣わされたと、なぜかキリスト教徒に対して一言余計です。

キリスト教、イスラム教ともに、多くの信徒を抱える歴史的宗教組織なので、安易に敵視したり、優位性を示す意味はなく、お互いの敬意は必要でしょう。

イスラム黎明期

イスラム教徒キリスト教の確執を、文献に基づいて再構築しました。
イスラム教史は、税制と兵制の歴史で、布教=支配という社会インフラを持っています。

ムハンマド・イブン・アブドゥラフ(570 - 632)(太陰暦)は如何なる人物でしょうか。
ターバンかぶって、ひげ生やして、しかめっ面した聖職者...?
ではなく、旧約聖書ではヨシュア、東洋では曹操のような人物です。どちらかというと武装商人、塩仲買人武将の関羽でしょうか。中東では、軍事力、宗教基盤、地盤、血筋が統治に必要です。
ムハンマド
 Wiki画 ジブリールとムハンマド

中世西欧では、神授、社会契約、教皇戴冠など、自分探しを続けていました。
元首がアプリオリに統治権を持つのは、日本天皇家くらいで、普通の国は、なんでオレらを支配するんだ!と反発されてしまいます。

中東地域では、宗教と神話という形で統治します。
ムハンマド死去
ムハンマド葬儀(正統カリフ一同に介する)

戦上手な預言者の誕生

ムハンマド生きた頃は、東ローマ、ササン朝、隋の時代。

アラビア半島は多神教地域で、国家を神に見立てた神話を上書きしながら、諸国の関係を反映していきます。神々が戦えば戦争、結婚すれば合併というように、神話が常にアップデートされていきます。
メッカ

ムハンマド(25)は商才と統率力に優れ、闊達な若者。

若き日のムハンマドの活躍を見て、大商人未亡人のハディージャ(40)(555 - 619)が見初めて恋に落ち、大恋愛の末にムハンマドは商人の若旦那に収まります。

ハディージャ亡き後、妻となるアーイシャ(614 - 678)が「何であんなオバハンを!」とムハンマドに問うた際、すごく悲しそうに「苦境のとき、みんなが去っても、私を信じ励ましてくれた。こんな妻はいない」と、ハディージャへの想いを語っています。なんというか、理想的な愛情があります。


ムハンマドは議論好き。
アラビア商人には、千夜一夜の盗賊のような強欲者が多く、正統派商人のムハンマドは性格が合いません。イスラム教では清貧を是としますが、これはムハンマドの性格を強く受けています。

そんなとき、シルクロードの異国の商人達から、キリスト教の話を聞き、聖書とキリスト教勢力に関心を深めていきます。

そして、ムハンマドが山で瞑想していると、告知天使ジブリール(ガブリエル)が、教えを授けに現れました。新たな教えクルアーンを授けられ、偶然空席だった旧約聖書名門、アブラハムの庶子イシュマエルのひこばえが、クライシュ族であると教えられます。

ムハンマドは話を聞いてビックリ!家に帰って愛する妻に相談します。

ムハンマドとガブリエル

妻ハディージャはムハンマドの説く内容に深く傾倒して、最初のイスラム教徒となりました。

文字の読み書きのできないはずの若い夫が、突如、詩的な美しい韻律で語るのですから、妻ハディージャは、この教えは本物だと確信し、夫の教えに従うことにしました。最初のイスラム教徒誕生です。
ムハンマドとハディージャ
ハディージャとムハンマド 偶像崇拝禁止のため顔がベールに覆われます

ムハンマドはイーサ(イエス)の次代の最後の預言者にして、イーサの民の信仰が不十分なので、ジブリールがクルアーンを授けたのだといいます。

足の踏み場のないほど神々がいる、アラビア半島ではクルアーンの教えは迫害を受け、妻ハディージャと伯父アブー=ターリブ(549 - 619)に守られながら、クルアーンを布教し続けます。

しかし、妻や伝・叔父アッバース・アブドゥルムッタリブの死去により、後ろ盾を失うと、622年にムハンマドは布教の拠点をメディナに移します(ヒジュラ)。

※ このくだりが、後のアッバース朝成立の根拠になります

ウマルイブンハッターブ
 ウマル・イブン・ハッターブ テレビ番組になるほどの国士無双 Youtube英語で視聴可

ヒジュラの直前に、ムハンマドは有力な若者を得ていました。
優秀な指揮官ウマルです。

クライシュ族の勇士ウマル・イヴン・ハッターブ(592 - 644)これまた見目麗しい美少年。彼の統率力によりクライシュ族の地盤固めができ、布教のための兵団(?)をもって、劣勢を一気に覆し始めます。後にウマルは二代目カリフになります。

ヒジュラの翌々年はパドルの戦い(624)、メッカ奪還(630)、アラビア半島軍事制圧(632)と、順調に布教活動が進んでいきます。

同時期、エジプトとシリアの重要性を痛感し、人脈のウスマーン(576 - 656)、指揮官ヤズィード(605 - 639)、の活躍もあり、北アフリカを勢力圏に加えます。ヤズィードが病死すると、ムアーウィヤ(603 - 680)が次期シリア総督になります。

ムハンマドはアラビア半島統一まで駆け抜け、急速に体調を崩してしまいます。


ムハンマド 寵愛の蹉跌

特にムハンマドの寵愛を受けたのは、幼妻アーイシャ(9歳で56歳のムハンマドと結婚)(614 - 678)と娘ファーティマ(615 - 632)で、ファーティマは夫 アリー・イブン・アビー・ターリブ(599 - 661)とともに預言者後継者一家と見なされていました。

アーイシャは、戦場でも、神殿でも、ムハンマドと共にし、夫の言行を逐一記憶して、後の重要文献ハディースに生活面での記録を加えています。特に生活面での律法が詳細なのは、アーイシャの記憶力が良かったため。

弁舌闊達で、ムハンマドと語らい、始終付き添った妻アーイシャ。

彼女はアーイシャ・ビント・アブー・バクル、初代カリフのアブー・バクル(573 - 634)の娘です。
ハディス
 現存するハディースの一部

ファーティマとアーイシャは、ムハンマドの寵愛を巡り、お互いが面白くありません。ファーティマはアブー・バクルとも関係が悪く、ファーティマにとってアーイシャは、外戚にして後妻というドロドロ険悪な関係です。

系図
かなりややこしい系図(血縁関係が重視される世界)コトバンクのもの

アリーとファーティマ夫妻は、632年にムハンマドが没すると、アブー・バクルにムハンマドの遺産の引き渡しを要求します。しかし教団は有力者の共同体のため、アーイシャは、ファーティマとアリーの遺産相続を一蹴します。

有力者達は、司令官ウマル・ハッターブ、元老アブー・バクル、その娘アーイシャは合議体による判断に賛同し、功臣一同が共和制スンニでまとまり始めました。
アリーターリブ
  アリーターリブ(19世紀画像)


イスラム教成立と消息

世襲禁止はイスラム教原点旧約聖書に遡ります。
ヨシュアがエリコの街を全滅し(ヨシュア6:18)、金銀銅鉄すべて主の倉庫に接収しているので(同19)、イスラム教原理主義は、武装蜂起する口実として、原典原理を持ち出すようになります。

旧約聖書では、何度王政を住民が要望しても、預言者は王政を拒否しました。
あまりにしつこいので、預言者サムエルが折れて、サウルを王に建てます。

しかし次代ダビデ王の後、遺産相続をめぐって争いが起き、制したソロモンは調子に乗って、多数の側室と懇ろになり、神から離れて王国は衰退に向かって進んでいきます。そして予想どおり預言者はないがしろにされます。
サムエル
 預言者サムエルとサウル王(永眠妨害にサムエルブチ切れ)

イスラム国家の世襲王朝は、全て滅亡しますが、クルアーンとスンニは残り、アーイシャの慧眼によって、現代にイスラム教が伝わります。

仮にアリーが世襲した場合、元勲やアーイシャを処刑したでしょうし、クルアーンも、エジプトも、ハディースも失い、東ローマ、ペルシャに滅ぼされ、組織分裂により自然消滅したと思われます。

分裂を急ぐイスラム教有力者の中で、最後までアーイシャはかすがい役を務め、信徒の話をよく受け止め、とにかく共和制にこだわりました。オッサンだらけの集団は主導権を奪い合い、均衡が保てません。

王朝が血筋や民衆の組み合わせに対し、イスラム教は形而上のもので朽ちません。
日本国憲法は100年足らずですが、恒久、永久という概念が含まれ、憲法が形而上のものとして意識されています。官報が全部焼けても、憲法は残るということです。

大商人ウスマーンがウマルの指示でエチオピアへ移り、ヘブライやアレクサンドリアの財力と文献収集力を使って、クルアーンを一つに編集します。

ウスマーンのクルアーン
  9世紀のクルアーン(wikipediaアラビア語画像)


分裂の帝国

初期イスラム圏
   ウマイヤ朝前後のイスラム圏( 白地図素材に加工)赤は肥沃地

初代 アブー・バクルはクライシュ族有力者にしてアーイシャの父。ムハンマド没から2年後に、後を追うようにして亡くなります。

二代目 ウマル・ハッターブ(592? - 644)はクライシュ族指揮官(アミール)。武力をもってイスラム教布教に貢献しました。638年にエルサレムを征服し、エルサレム主教下のキリスト教徒を保護民とします。

三代目にウスマーン・アッファーン(574? - 656)はクライシュ族ウマイヤ家商人。ウマルの下でエチオピア地方で地盤を作り、エジプトやシリア攻略を成功させます。ウスマーンは征服地の反乱、東ローマの侵攻、ササン朝を下すうち、中央集権制度を整えていき、官僚制の整備、常備兵の整備が進んでいきます。

軍隊は占領地の平坦と食料を接収して力をつけ、徐々に軍閥化して反乱軍を形成していきます
。ウスマーンは統治の妨げになると予見して、軍隊による接収や略奪を禁じるものの、時はすでに遅く、兵士達は取り分の激減に怒り、ウスマーン暗殺を誓うようになります。

当時はユダヤ人限定の金貸業ギルドがあり、これいいなと、ウマイヤ家でも金貸業を始めます。裕福になることは、いいことなのだと、一族は非常に裕福になります。

イスラム教は清貧の教え。有利子債権禁止でゼロ金利を永久保証。
さすがに、ウスマーンはイスラム教から逸脱していると、信徒はアーイシャに訴え、ウマイヤ家寡頭優遇と、成金ぶりに対して、「まだムハンマド形見の服の、ぬくもりが残っているというのに、スンナ(律法)を忘れたのか!」と苦情を伝えています。アーイシャは最後まで、信徒からの献品や金銭は受け取らず、貧しい者に分けたといいます。


シーア派、改造スンニ派への分離(正統カリフ消滅)

ややこしいことに、ムハンマドの養子 アリーも動き始めます。
ウスマーンは、ウマイヤ家出身者だけを重用し、軍隊の略奪を禁じ、勝利しても手柄がなく、わずかの残りもウマイヤ家に取られてしまう。

公租公課は、租税ハラージュは収穫の半分、更に公課人頭税ジズヤも取られ、異教徒は更に納税が重く、手元に残る収入がありません。兵士達はブラックぶりに大激怒。

そうだ、労基、いやアッラーの獅子、アリーがいるじゃないか。
俺たちの力になってくれるに違いない。しかもウマイヤ家を嫌っているらしいじゃないか、ということで、急速にアリーに兵士達が集まり始めます。

アリーの庇護下に入った暗殺団が、656年にメディナでウスマーンを暗殺すると、スンニによりアリーが四代目カリフに選任されます。

この動きに対して、シリア総督ムアーウィヤは、ウスマーン暗殺の血の復讐を誓い、660年にスンニによって、出来レースでカリフに互選?されます。カリフを世襲で出来互選(?)することとなり、世襲王朝となるウマイヤ朝を開きます。

アリー庇護下の暗殺団のウスマーン暗殺はやりすぎだと、ある兵士はアーイシャに相談し、アーイシャはアリー討伐の協力者を募り始めます。ラクダに乗ってアーイシャが対峙するものの、アッラーの獅子はさすがに強く、自分の服だけ持って、とっととメディナに帰れとアーイシャは戻されます。

アーイシャが政治の場から姿を消すことで、有力者による共和制カリフの時代に戻れなくなります。

ラクダの戦い
ラクダの戦い 左のラクダに乗った女性がアーイシャ

更にアリーは、トコトン野戦に強かった。さすが神の獅子。

翌年にはスィッフィーンの戦い(657)でムアーウィヤに勝利しますが、ムアーウィヤの提案で和平に持ち込みます。ムアーウィヤの力は絶大なので、再三、部下達はアリーに翻意を求めるものの聞き入れず、アリーを見限った者が、ハリワージュ(分離主義者)として離れていきます。

やはり、ムアーウィヤの政治力は無視できない。
アリーが再度、ムアーウィヤ討伐軍編成を始めると、だから言わんこっちゃないと見放されはじめ、「まずは胸に手を当てて考えてごらん」とハリワージュがアリーに手紙を送ると、アリーは集落を全滅させ略奪してしまいます。

復讐は復讐を呼び、ハリワージュは661年にアリーを暗殺してしまいます。

ムアーウィヤはアリー領を攻略し始め、イスラム圏全体を帝国化します。


シーア派の復活

系図
 初期カリフ系図 山川出版 イスラム教史 から引用

地租ハラージュの、収穫50%の税率は、ウマイヤ朝を通して行政をたたります。加えて人頭税ジズヤも重いので、節税対策としてイスラム教に改宗する者が相次ぎました。これを追いかける形で、改宗者からもジズヤを徴収すると、ますますウマイヤ朝は政情不安につながっていきます。

ウマイヤ家寡頭制が揺らぎ始めると、臥薪嘗胆シーア派が力をつけて、シーア派の力を借りる形で、ウマイヤ朝をアッバース朝(750-1543)が倒しますが、、10の王朝に分裂していきます。 
年表
イスラム国家の共時的勢力変遷 世界の歴史まっぷ様から引用




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