以下の内容はhttps://sophie-mercure.blog.jp/archives/2025-10.htmlより取得しました。


実際に不正操作送金(乗っ取り)に引っかかるとショック。
証券と銀行が連結した、グモ(仮) FX  の自分の固定口座以外の口座に送れる仕様を狙われたよう。

全額返金をうたっている金融機関でも、その条件が狭い。
発見直後、言いようのない怒りを覚え、不信感もありましたが、今は前向きに心情が好転。

多機能口座はリスクの高さの裏返しで、加えて、FX口座数最多というのは、ハッカーが攻略しやすい口座でもある。他の口座は被害が全くなく、こういうときは慎重にトレードするので、すこぶる調子が良く、ネットワークセキュリティの意識が刷新できたので、いずれ知恵として対価が戻ってくるでしょう。

今は警察しか頼れない。一生懸命応じてくれる警察さんには頭が下がります。

グモだけ他人口座に振り込めるので、他5口座の被害はなくセキュリティが甘い。
HPでは親切っぽく書いてあっても、金融機関は基本的に鬼。郵便配達員さんも「この証券会社詐欺だよ」と言ってくれるくらいで、まあ、驚くよね。昔、ゴミ投資家と顧客を呼んでた会社もあったわけで。

銀行員さん、すぐブチ切れるので話しづらい。待遇が悪いのかもしれない。

マイクロソフトアカウントはすぐスパムであふれる

乗っ取りの兆候として、20秒ごとにスパムが入り、フィルタも通報もスルーパス状態になり、数日後に金融口座にアタックが入ります。以前、会社にランサムが入ってクラウド移し替えた際、集中的にスパムが入り、ウイルスチェックが効かないので驚かされた。

Microsoftアカウントは死の状態になり、アカウントは捨てて引っ越すしかありません。そもそも完璧なシステムはないので、今クラウドが全盛なのは、すぐ破壊後に立ち上げやすいため。

Onedriveは勝手にマイクロソフトが操作する仕様のうえ、メールアドレス必須なので、壮大なフィッシングメールですよね。そのためLinux+sakuraサーバーメインに代えて、Windowsは外していく。

パスワード備忘用には、結局、ipodを引っ張り出して備忘メモに使うことに。

闇バイトを雇うくらいなので、金融口座は普通に抜かれる時代

そもそも、MS Defender やウィルスバスターでも、Lockbit あたりには無力。個人情報をmicrosoftに差し出し、カード番号、生年月日、電話番号とメールアドレスとの同一人物の一致をWindowsが確認するため、ランサムウェアのような製品になっています。

ならばスマホのように、最初から一人しか使わない前提の非Windows機が安全です。企業Windowsでは、顔認証と目をパチパチ認識をしているため、一人使用の前提。複数人ユーザーアカウントが残り続ける限り、Windowsはセキュリティに甘さが残る。

パスワードは駆け出しの5回をipod見ながら入力すると、後は覚えたパスワードを入力できます。セキュリティの専門家は人間の記憶を考慮しないので、難しいパスワードにしろと好き勝手いいますが、人間の記憶の助走期間を考慮してないのですね。5回くらい入力しないと、人間は難しい文字列を覚えられません。何回か入力すれば、セキュリティは難しくても覚えるゆえ、最初から完璧の必要はないでしょう。
LINUX
最近の Linux は、ほとんど外見はWindows と変わらない Cinnamon + Windows10 theme 例。Linuxに移行する

後日談

送金元、送金先の銀行、警察の三者と自分のやりとり。

三者とも激しく激詰めし、こういうことがあったのではと誘導され、面倒だからと肯定すると、ペナルティーとして補償金が減ってしまいます。水際対策が激しいです。

不正口座には、無数の被害者が送金され、瞬時にブラックバイトの受け子が引き落とすことから、銀行で凍結したときは、すでに引き出されてしまいます。ゆえに、自分名以外の口座に送金可能な口座は開設しない。旧姓口座を持っていると、トラブルになりやすいので、旧姓口座は残さない。

手続きは「犯罪利用預金口座等に係る資金による~(略)~法律」に基づいて、振込先口座のある銀行が処理し、書類到着が半年後、入金が半年後、計1年後に入金予定と告げられる。

今はブラックバイトが無数にいるため、すぐ引き出されて、凍結時には残高0円になるので期待できない。関係者全員、ブラックバイトは社会から追放するつもりで応じています。

なお、送金元の補償は、激詰めに引っかかった分が減殺され、半分程度が落とし所。ネット証券では補償がない金融機関もあるので注意。

不足予想が10万円程度なので、気を切り替えて、別口座で取り返すも、損失分は経費計上できない。仮に補償が戻った分が、申告分離分の所得にならない裏返しと思われる。

不正は許せないが、対応いただいた方には感謝。
堅牢に見えて、危ないセキュリティー上の取引であり、特にMicrosoft Windows は不正に使いやすい。

石破首相の80年談話

石破首相の80年所感を10月10日に出しました。
石破

一部には評価高いものの、ポピュリストダメっていうけど、魔人ブウのコスプレしたり、地域創生といって地方にバラマキしたりって、ポピュリズムにならないのかしら。

いざ、戦争中のロシアには応用できないし、今の日本にも応用できない。ロシア、イスラエル、ハマスに言えたら立派ですが、石破首相は紛争に対して何も言ったことがありません。いや、イスラエルだけ非難して、イランは擁護してますが、石破観点では、核開発は問題ないのでしょう。

石破首相の談話に問題があって、誤解が多い。
  • 海軍軍縮条約を統帥権干犯と批判したのは犬養毅(後に首相)
  • 斎藤隆夫議員は貧しい国民を代弁し、石破首相の説明と似て非なるもの
  • 東京で完結することしか書いてない
  • 本当に国民が困窮したのは首相判断の金解禁だった(※)
(※)金本位では、輸出を増やして金を蓄積する重商主義が基本。輸入超過では金流出によるデフレが起きる。

反軍演説は、軍ではなく、軍ベッタリの近衛首相への批判です。

齋藤議員は30年前の失策(大隈重信首相の失策、対華二十一箇条)を批判し、田中義一首相が、中国に対して、関税自主権を認めず、治外法権を押しつけ、中国の独立を奪ったことを批判しています。演説にはありませんが、治外法権のために、満州産アヘンを中国で売っても日本人は罰せられないため、日本は中国で蛇蝎の如く嫌われてしまいます。

齋藤議員の第二次大戦の原因は極めて正しく、田中義一首相の対中政策が反日を招き、近衛文麿首相の近衛声明が致命傷でした。

齋藤議員の指摘を再確認すると、極めて戦争の原因を正しく指摘していることに驚かされます。

クリティカルポイント

これは現代政治でも同じく、内政失敗が戦争に直結した時代のことで、格差社会による中間層の没落をいまだに解決できず、少子化高齢化による社会保障負担が重く、さらに少子化対策のために徴収までしてしまう岸田政権。対策が家計負担になっている内政失敗。

石破首相の説明は叙事詩化し、話が散らかってしまいますので、各社コメントなく、精神論的な意義を述べるにとどまります。

石破首相 反軍演説(衆本・立憲民政党斎藤隆夫)議事録削除復活に意欲

議事録から削除された演説、但馬の斎藤隆夫議員(1870-1949)の衆本演説は、近衛首相以前の歴代の首相の政策の批判です。そして議事録削除が、当時の陸軍の政治介入の痕跡として残ります。

斎藤隆夫

齋藤議員は、反軍演説前に、粛軍演説では 五一五事件(1932)、二二六事件(1936)処理に疑問を呈し、その演説に対する声援を受け、改めて反軍演説を行ったものです。

粛軍演説では、軍人の処刑者が少ないと指摘されますが、荒木貞夫の著述では、対米対戦を予測したため処刑をさせなかったといいます。東条英機は、処刑から赦免する人物は忠誠心が強いといい、このような悪魔の管理学に基づくものです。
2025年10月2日 テレビ朝日  85年前の衆院での「反軍演説」議事録復活へ

近衛文麿
荻窪会議時撮影。近衛首相が中国、松岡外相が米国を挑発し、東条陸相が黒幕。

近衛首相は近衛声明発表後、御前会議で日米開戦に踏み切り、敗戦色強くなった1945年には、せっかくの東条内閣倒閣のチャンスを止め、停戦の機会も潰してしまいます。基本的にものぐさ宰相。

近衛首相は始終一貫、和平を口にしていました。
周囲は「心が弱い人だから無理だよ」と、出しゃばる割に、軍の言いなりになってしまう。
服毒
近衛公検死時撮影。服毒自殺なのは、心の弱さから家族が自殺を懸念し、銃を隠したため

近衛文麿首相は、石破茂首相とよく似ている。

命がけで向き合わず、アウェイの場から逃げてしまう。政治家は総じて、批判者を避けるきらいがある。好意的なテレビ局や新聞に応じて、後任首相を悪く言ってしまう。

青年将校は、優しく世界秩序の誘惑を語り、近衛首相を大政翼賛会総裁に誘い、政治力のご才活発を奮うよう言われ、近衛文麿首相は調子に乗って、近衛声明が発せられます。優しい言葉に弱い。

蒋介石は味方ではない、和平の中国を建設する者と我らは与する。我らの平和への責任は重いのだ!分からず屋め!<第一次近衛声明意訳>

石破首相は共産、立民の甘言に乗って、80年談話を出して平和を語られよと、その気になり、消費税下げるために法人税を上げればいいじゃないと言われれば、素晴らしい意見だと賛同してしまう。民間企業は、売れなければ値引きしようというのに、国は税を上げようでは賛同は得られない。

2025/08/04 読売新聞 戦後80年「首相談話」見送りの石破首相「形式はともかく、発出は必要」
2025年09月08日 時事通信 石破首相、80年見解、国連総会で公表案 退陣表明後、困難の声も

共産党の目的は、綱領によると、違憲自衛隊なぞ解消して、防衛費を貧富の格差、侵略と植民地の反省の枠組みに振り分けろとあり、防衛費を削ってばらまけということ。

石破首相は共産党綱領を読んだことがないから、気軽に反省(=枠組予算出します)と言えてしまう。
日本共産党綱領
石破演説
令和7年9月24日 第80回国連総会における石破総理大臣一般討論演説

だから、斉藤反軍演説の復活で十分で、石破首相の演説に付加価値がないので、立民党からも、遅きに失したと言われてしまいます。そのくらい、反軍演説は出来が良い。

2025年10月3日 朝日新聞 立憲・野田氏、歓迎でも「遅きに失した」 石破首相の戦後80年見解

戦争への道 -社会思想史- 二・二六事件と北一輝・マルクス共産革命思想

日本が第二次大戦の真珠湾攻撃(1941)に至った原因は、二・二六事件(1936)から繋がっていきます。事件の主役は決起将校達であり、地獄のような日本の国家改造を目指し、将校達の会話では、姉が遊郭に売られたという話まで残っています。

二・二六事件は、天皇を中心とする、兵士によるマルクス革命(北一輝と二・二六事件の陰謀)であり、軍主体の一党独裁体制を目指しました。

二・二六事件では、蔵相の高橋是清が暗殺され、直前は相沢事件で永田鉄山が惨殺され、太平洋戦争を止められたであろう人物が、命を落としてしまいます。終戦当時、永田鉄山が生きていれば、日米開戦はなかったと嘆く政治家は多く、それだけ、数少ない、政治家と議論し対話できた将官でした。

高橋是清亡き後、軍の予算浪費が膨大になり、斎藤隆夫反軍演説の指摘のとおり、近衛文麿は無尽蔵に軍事費を積みます。高橋是清は積極財政により、ブロック経済のハンディキャップを克服し、輸出超過まで持っていきますが、その産業を軍が接収していきます。

御前会議

御前会議における、中国から撤兵の乙案をもって、戦争は回避できたかに見えた。これを壊したのが英国と中国であり、世界視点では、日本の拡張政策を抑えられるのは、米国しか存在しなくなっていたため、ハルノート最後通牒が、希望に見えたようである。

中華民族為政者の多くが、日本政府を本気で嫌っていたために、結果的に対米開戦が必至になってしまいます。一時期、浜口・幣原外交によって信頼を取り戻したものの、無目的に膨張するため、軍事費を際限なく積む国家になっていました。
田中義一
東方会議の田中義一首相(1927) 幣原外交から中国に厳しく転換したため、日米開戦に祟られる

問題とされる原油は、ルーズベルト大統領は止めなかったものの、チャイナロビイストがアチソン財務次官に交渉をして、ドル資産凍結(ドル決済停止)により、実質的に原油が買えなくなったもの。

ハルノートは議決を経てないため、宣戦布告ではないものの、日本政府が予想どおりブチ切れて、上手く奇襲攻撃を始めてしまいます。

結局、日本側の首相の数々の失策がアダとなってしまいます。

戦争は貧困地域ほど起きやすく、暴力革命により、軍隊が自らを救済者と認めるところから戦争が始まります(暴力の人類史)。

戦前、士官学校卒業生は小作人貧農次男坊が多く、事件の青年将校は、34,000人余が解雇された1925年軍縮の士官学校卒業生。一方、政治家は納税額が被選挙権要件なので、緊縮財政による減税の救済を受けます。

兵士達は金食い虫のように言われ、成金から見下されたため、国家改造して、国家が一元管理するボリシェビキ共産主義に共感していました。北一輝は共産主義国家改造で逮捕されたので、天皇中心の国家に書き換えます。
占拠

関東大震災(1923)の復興から、米国緊急恐慌(1929)の財政再建をすべく、浜口雄幸首相と井上準之助蔵相は、緊縮財政により財政を絞り、為替レートを高めに誘導して金解禁(1930)します。

通貨ごとに市場がブロック化し、銀行の不換紙幣の円では運用先が狭く、投資のためには金本位世界に戻す必要がありました。一方で、金が減る一方での金本位は、通貨高デフレ-ションに傾くため、養蚕農家は壊滅的ダメージを受けてしまいます。
高橋亀吉
高橋亀吉(文春写真) 積極財政は技術非効率を招き、奢侈経済は生産性低下を招くとする。政治家経済の誤謬を説き、現代日本は指摘のとおりに向かっている。経済成長は民間経済の再投資により達成すべきもの。

金解禁に対して、高橋亀吉や石橋湛山といった経済学者が結果を予見し、反対の声明を出しますが、田中義一政権と異なり、規律をもって臨めば解決すると浜口首相は考えるも、この判断が日本経済に致命傷を招いてしまいます。

ちなみに、高橋亀吉は、日本は貧富の差が大きいので消費が奢侈に偏り、産業が非効率になるため、中間層を厚くしなければ輸出競争力が強化されないと指摘します。最近のプレスは浜口雄幸を絶賛し、緊縮財政こそが日本の処方箋と考えるも、当時の産業には質に問題があり、政府依存は混乱を招いてしまいます。マルクス革命とも似て非なる視点を、当時の経済学者が持っていたことに驚かされます。

浜口雄幸首相遭難
浜口雄幸首相遭難時(東京駅)

浜口は中国に対して和平を目指し、貿易を中心とした外交を展開します。

蒋介石は浜口民政党政権と協調が取れるものの、張学良は親の仇として関東軍に徹底抗戦を取るため、浜口民政党政権下の不安定要因となり、難局の間で、永田鉄山は強引に満州事変を起こすことになります。

<政友会:田中義一>
・積極財政 対中強硬 公債無限発行 農地自作化 → 産業競争力が弱い

<民政党:浜口雄幸>
・緊縮財政 対中融和 公債圧縮 農地小作法 → 小作争議と産業衰退

<永田鉄山>
 列強に対抗するには、満州鉄道自衛権から満州拡張するしか方法がない

在郷会 小学校
在郷軍人会 越谷市アーカイブ様 退役軍人が学校活動支援とともに軍教育を実施

浜口雄幸首相は東京駅で銃撃されるも、一度持ちこたえますが、銃撃に至った佐郷谷留男の動機は、浜口首相の統帥権干犯といいます。なぜ一般市民まで統帥権干犯と言い出すのでしょう。

退役軍人は在郷会(1910)の事務に携わり、退役軍人が、一部は教師、一部は執筆家、一部は新聞記者になります。在郷会は田中義一(後に首相)が設立し、退役軍人互助会として、普段は徴兵の事務作業を行いました。

相次ぐ軍縮により、退役軍人が増えていくので、軍に批判的な新聞に対し、不買活動を仕掛ける程度にまで規模が大きくなります。逆に好意的な記事はよく買い上げました。

当時は、新聞社の経費が莫大になり、売上低下により発行停止が頻発します。
そのため、社を挙げて、売れる記事を目指すようになり、そこを突いて、田中義一は陸軍省新聞班(1915)を設置し、記事を誘導します。陸軍省新聞版が在郷会と一体化し、世論を動かすようになり、ここに食い込んだのが読売新聞と、朝日新聞。
東京大学社会科学研究所研究シリーズ No. 4 戦間期における新聞経営の推移と論点
満州事変勃発当初の軍部の新聞対策と論調に対する認識 

北一輝
二二六事件の首魁とされた北一輝

天皇の統帥権という、憲法から独立した権限を思いつき、北は「統帥権干犯」という言葉を造語し、陸軍は在郷会を通じて、天皇機関説批判活動を展開します。陸軍省新聞班は、天皇主権に基づき、軍への批判は統帥権干犯なのだと浸透させます。憲法の制約下の「機関(=法人)」でなければ、個人、法人、機関の制約を受けないことになります。

これを在郷会は徹底的に利用し、庶民にも、軍の意向に反することは統帥権干犯だと周知し、軍は自分たちをDeep Stateから助けてくれる、光の戦士だと宣伝しました。

在郷会が応援すると、とにかく選挙に当選しやすかった。
1928年に選挙制度が改正され、投票権に納税額制限がなくなり、在郷会の力が本領発揮します。

竹槍将軍の残した影響

陸軍に一番影響を与えた人物が、荒木貞夫大将。
彼の教育方針は、褒めて育て、ひたすら優しかった。
ゴーストップ事件(1933)では、一介の兵士が信号無視して巡査とケンカになり、大臣まで出張って陸軍大臣と内務大臣の訴訟にまで発展。当時は信号が珍しかったとはいえ、驚くほど身内をかばうマインドが皇道派。

彼の口癖は皇道であり、一時期、荒木を慕う大口叩きの将校を抜擢したので、彼に引き上げられた幕僚を皇道派と呼びます。
皇道派

大言壮語、その意気や良し! 我に300万の竹槍と兵を与えられれば、ソ連など討ち滅ぼして見せよう!と言っていたので、愛称が竹槍将軍。

荒木が重用したのが真崎甚三郎と小畑敏四郎。
意外にも、植民地政策を強引に支配してはイカンと言及し、民族自立を植民地に促すべきだと考えていました。荒木は、中国のような主君をコロコロ変える国は、万世一系の皇道で教化するのだといい、将校は非常に心酔していました。

永田鉄山は一夕会にて荒木を支えるも、石炭、鉄鉱石資源の確保を目指し、総力戦に備えるべきだと考えていたので、徹底的に荒木から嫌われ、対ソに備えるべきだとする小畑敏四郎を荒木は評価。

しかし現実は甘くなく、関東軍はケシを栽培し、中国でアヘンを売りさばき資金源にするので、蒋介石もたまったものではありません(1938.6 NYTIMES,ede33)。

こんな国を独立させると、とんでもない犯罪国家ができてしまいますが、そいった事情を無視して、柳条湖事件(1931)後の満州国独立の国家承認(1932)を、荒木陸相は求めるも、犬養毅首相は、断固として満州国国家承認を認めません。話が噛み合わない。
モルヒネ画像
満州予算のうちアヘン製品収入は2割程度(現代オークションサイト画像)

多分、話せばわかる話だったと思いますが、五一五事件(1932)で犬養首相は、問答無用といって銃撃されます。

皇道派幕僚のコミュニケーション能力と楽観主義、褒めて育てる主義が下剋上の雰囲気を作り出し、少し暴れても咎められないと学習し、この軍規の乱れに危機感を持ったのが永田鉄山。
永田鉄山
荒木貞夫陸相を一夕会で擁立するも、人事の専横が激しく持て余してしまい、荒木傘下の幕僚たる皇道派を、荒木貞夫、真崎甚三郎ともに、林銑十郎陸相と閑院宮を通じて永田は更迭します。コミュニケーション能力は、永田鉄山が高かった。一声かければ、何百の将校がすぐ集まる荒木陸相が相手。

しかし、教育総監を外された真崎甚三郎の怒り激しく、親の如く慕っていた相沢三郎は、真崎に忖度して、永田鉄山を惨殺してしまいます。

政敵を惨殺していくスタイルの皇道派は、近衛師団となる東京第一師団に皇道派士官を集めたもので、北一輝のクーデター計画が起きそうなことは、将校と宴席で関係を構築していた荒木や真崎ならば知っていたこと。

竹槍将軍のピンチには青年将校は助け、二二六事件では竹槍将軍は、士官の減刑を主張しています。

竹槍将軍は、文部大臣(任1938-1939)も就いて、忠臣となって貢献する組織作りとしては優れていました。単に、優秀というだけで登用すると、思いも寄らない組織に成長します。

太平洋戦争の原因詳細

日米開戦前構図

米国と英国は、中国国民党政府を支援し、日英米仏同盟の太平洋内の基地変更の禁止を定めていました。この四国同盟の間では、太平洋地域の軍用地を増やしたり、戦争をしないという規則内容です。

これに直接影響したのが、富永恭次少佐の仏印進駐(1940)であり、無難に誤解を解くべきところを、野村・ハル交渉の間に、松岡洋右外相が乱入してきて、更に大島駐独大使の熱意によって日独伊三国同盟を結ぶという、奇跡的な連携プレーによって戦争に発展します。

仏印進駐は原油確保のためで、これは近衛声明によって蒋介石を完全に怒らせたために、日中戦争が引き金となって、中立法に違反するため原油輸出禁止になったもの。

戦争させたい人の立場から見ると、松岡洋右を外相にさせた関東軍(東条英機)の手腕が冴え渡って、目的どおり、日米開戦につながっていきました。開戦に反対しそうな人物は全て、予備役(実質解雇)か閑職にまわしており、東条英機は永田鉄山の腹心として頭角を現し、永田の基本構想の資源の確保のため満州国を手中に収めました。

戦争は単純に侵略を仕掛けることで起きるのではなく、自分は特権的立場であると考えたときに、戦争の種が蒔かれてしまったのかもしれない。

戦争に至るきっかけ -社会思想史- 日蓮宗の終末思想信仰と大東亜共栄圏(準備中)

大正は日蓮宗の時代。
貞明皇后が信心し、日蓮は立正大師と諡されます。

日蓮宗への国家信条として、国立戒壇運動も起こりました。日蓮宗は幕末以来、在家講が広まり、家に仏壇を建てて祈祷する、一家に一台、戒壇をという日蓮宗。在家でも修行を怠けると地獄へ落ちるわよ!という危機感があったのですね。
八聖殿
安達謙蔵の八聖殿(1933)の像 八紘一宇との関連も指摘(八紘一宇の社会思想史的研究)

日蓮宗の田中智学は、日本書紀から八紘一宇を造語し、五族協和の社会を唱えます。田中智学は美濃の清和源氏末裔とされ、日本を守る征夷大将軍の系統の矜持が強かった。

当時、米国や欧州の不平等条約、植民地化、政治家や軍人らも危機的な世相と感じており、我らも何かしたい!という思い、天皇陛下を敬い、全身全霊をもって守りたいという気迫が、田中智学は激しかった。石原莞爾も意気に圧倒され、おう、皆で国を守ろうや!と考える軍人にも伝わり、後に血盟団事件(1932)というクーデターも発生。外国が攻めてくるという日蓮宗の思想が一致したかのような時代。

石原莞爾は日蓮宗理解に基づく、日米東西最終戦争、大東亜構想、本化上行菩薩の楽土の建設といった、満州の領有と絡めて重要性を説いていました。

国柱会会館
国柱会館。小さな会館に多くの著名人が話を聞きに来ていた

石原の構想に感じるものがあったのか、永田から「君は満州に関心があるらしいが、やるか?」と声をかけ、これに石原がニヤリと笑みを返し、ここから柳条湖事件以降のマッチポンプ式侵略が始まります。

張作霖事件(1929)で田中義一首相が総辞職したものの、石原はそれ以上に過激に動いても咎められないのは、それだけ一夕会の力が強く、長州閥の追い落としから、田中義一首相を守らないため。ここから南陸相も板挟みに封じ、長州閥が陸軍から一掃されます。

クリミア戦争(1853-1856)が戦争を変え、第一次大戦で国家総力戦の時代に。
アルフレッドノーベル(1833-1896)の火薬進化の時代。

西欧の火薬の進歩が著しく、19世紀から20世紀にかけて、ドイツ駐留の永田は、列強間の軍事的な収奪戦に見えたらしく、国際連盟は敗戦国からの収奪の装置であって、とても平和を目指すものではなく、列強諸国の貪欲さが鮮明でした。

こうして、浜口雄幸と永田鉄山は、同床異夢のまま、浜口は理想、永田は現実を目指しますが、オスマン帝国への列強の姿勢を見れば、下手をすると食い物にされると考えたかもしれない。いや、浜口雄幸首相は、それでも理想に邁進したのは、人類を信じた人物だったのかもしれない。

トルコ分割
オスマン帝国分割図 ここから現代の中東問題が発生

特に第一次大戦の英仏露のオスマン帝国侵略は激しかった。
分割統治のサイクス・ピコ協定について、ロシア帝政の陰謀を暴くとして、ソ連政府から公開されてしまいます。オスマン領には油田が多く、ここに食い込んだのがロックフェラー家。航空機、車、船舶には原油しか使えないので、経済成長には必ず原油が重要物資になると考えていました。

原油はロックフェラー Standard Oil(1870-1911)が支配し、第二次大戦期は分割会社の Royal Dutch Shell etc の. the Seven Sisters, Majors は1940年代、8割程度の採掘権を支配します。中東戦争後、産油国は資源ナショナリズムが盛んになりますが、Majors は第四次中東戦争(1973)以降、無敵でなくなり、オイルショック時にシェアが4割程度まで落ちてしまいます。

原油をめぐる禁輸を敷く米国ですが、戦後、日本石油や出光興産はMajors傘下に入っていないように、常に石油会社は独立を保っていたので、案外と産油国や仏印原油の輸入ができれば、以外と上手く交渉ができたのかもしれない。ロックフェラー Majorsは、カルテルを結んで高く売りつける会社でした。
バーデンバーデン
永田鉄山と小畑敏四郎はバーデン・バーデンの盟約を進めるも、統制派と皇道派の袂を分かちます

日本陸軍では、永田鉄山の国家総動員構想を一夕会を中心に動いていました。
 永田の前に永田なし 永田の後に永田なし
これは「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」という、仏教の唯一の悟者の表現であって、それだけ絶大な力を及ぼしました。

永田によると、ドイツが4年も戦争継続できたのはルーマニア油田、炭田、ロレーヌ鉄鉱を押さえたからで、鉄鉱、石炭、原油を含めた資源の自給自足を必須とします。軍事費を圧縮して、鉄鋼や電力生産力を上げる予算には賛成し、こうして永田は議会と強調歩調を取ります。

永田の評によると、日本人は熱しやすく冷めやすく長期戦に向かないため、兵力増強しても飽きっぽいので、仮に攻撃するとしても一撃で終了する場合に限られると考えます。ここから真珠湾奇襲、対支一撃論が生まれていきますが、その先を全く考えてなかったので、熱しやすく冷めやすいの評は正鵠を射ていたといえよう。

獅子
永田は、怨恨の種をまくだけの国際連盟に期待する浜口雄幸を斜に構え、これでは大戦がまた起きると考えていました。軍縮は戦争抑止ではなく、手段と目的を錯誤しているため、軍縮条約への反発として海軍将校の起こした五一五事件には、陸軍は参加していません。

満州事変後、永田は小畑と対ソ急襲を争い、国際世論が日本に不利であること、満州の国家建設5年計画実現前に事を構えるのは、時期尚早と考えます。

原田熊夫の口述記録(1933)によると、対ソ急襲派の小畑は、永田の慎重論に論負けすることが多く、陸軍内では永田に納得を得る者が増えていきました。しかし永田は、小畑案を五相会議に提出し、対ソ急襲に舵を切りますが、これは1936年の海軍軍縮条約改定と国際連盟脱退発効が日本の危機が重なる時期であり、対日制裁ショックを予見していたもの(浜口雄幸と永田鉄山)。

永田は満州事変を、自衛権の発動として内閣を強引に通し、予定されていたクーデターを押さえ込んでいます。国際世論は英仏米の都合で進み、中国は米国の傀儡化しているので、国際連盟に加盟していないソ連急襲案に乗り、また、荒木陸相が小畑を評価しているため、小畑案を使わざるを得ませんでした。

米国発金融恐慌以降、青年将校のクーデター性向が強くなり、血盟団事件(1932)、五一五事件(同年5月)が発生します。

国家改造案を持つ青年将校らの意見を言語化する必要があると、永田は考え、意思疎通と意見の摺り合わせのために、陸軍内に研究機関を幾つか設置します。研究機関の報告に将校と幕僚が意見を合一することで、軍内の統制の欠陥を除こうとする試みですが、相沢事件によって永田落命以降、二二六事件(1936)、盧溝橋事件(1937)と陸軍は統制が効かなくなってしまいます。そして、腹心の東条英機には永田の後釜は、荷が重かった。

このあたり、現在の政治家の料亭政治や、意味不明なバラマキによる得票を見ていると、あるいは一時期の日本の飲みニケーション文化は、当時の陸軍と変わりません。令和現代の方が、戦前陸軍よりも組織内の意見の摺り合わせができておらず、外交面でも。、米国兵器主義ベッタリの政治のなかで、そろそろ米国が衰退していくなかで、軍事力威嚇団とノリだけでは、政治はうまくまわらないと考える必要がありそうです。
東京裁判
東京裁判-読売新聞

石原莞爾という人物が関東軍にいるときは、破竹の勢いで進み、1936年以降、日中開戦になるときは、中国国民党政府が簡単に下せないと判断し、日中開戦に反対します。

彼は東条英機によって更迭され、彼がひたすら無理筋だと言っても、武藤章、東条英機は強行に国民党政府に攻め入ることを止めません。この結果、大量の兵士が中国大陸に送られて、飢餓で皆倒れてしまいます。永田が危惧していた1936年外交危機は、日本では近衛政権にて日中戦争という選択肢を取ってしまいます。

国民党政府は、焦土作戦が有効に効くと悟り、勢力圏を拡大していると見せかけて、無人の荒野に引き込む。東条英機の作戦の多くは、兵站不足に陥ったという記録があり、まさか、勢力圏の拡大を勝利だと思っていたのでしょうか。斎藤隆夫議員の指摘、統治戦略も経済的メリットもないこと、日本政府は一貫して、戦果を上げることしか興味がないという指摘は正しかった。

少なくとも、太平洋戦争は、宗教戦争ではないし、石原莞爾に本化上行菩薩が宿ったわけでもなく、日本で影響を増した日蓮宗の田中智学に学び、日本の置かれた状況を、日蓮宗を通して石原は見ていました。

東京裁判は、関東軍にいた田中隆吉情報将校が、陸軍省兵務局長となり、彼がほぼ記憶していたことを全てGHQに語ります。語る整合性と説得力を持っていたので、東京裁判で彼の証言が重用され、関東軍にいた頃の武藤章、東條英機が戦犯指定され、石原莞爾は戦犯指定から外されます。

石原莞爾は、戦犯指定して処刑しろと言っていたにも関わらず、戦犯から外れてしまいます。

開戦期頃の石原莞爾は、関東軍には満州を統治する能力がないと考え、資産だけ保全できれば、円満に別の国に譲った方が良いかもしれないと述べるようになっていました。満州を統治するには関東軍の日本人が優秀とはいえないので、その程度の人が治めるならば止めた方がいいということ。

齋藤議員の反軍演説でも、なぜ中国の統治構想がない日本が、中国全土を統治しようと考えるのかと疑問を呈していました。軍のみが外交問題を解決する手段になると、略奪しかできない国家になってしまいます。そうして終戦時、日本は何もかも失い、焦土になってしまいました。



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