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母の昔話をたどる、昭和30年頃に東京から長野まで

亡くなった母が話していたもので次のようなことがあります。

 

弟が生まれてすぐに田舎(実家のある長野県南部)に帰る用事があり、〇(私)の手を引いて〇(弟)を背負って大変な思いをして帰省した。

 

というものです。

これを現代の資料検索でどの程度調べることができるか、やってみました。

 

まず「それはいつのことか」

弟が産まれたのが昭和31年6月。そして昭和32年春には父の転勤で名古屋に引っ越しています。

さすがに生まれた子が3カ月程度にならなけらば動きが取れませんので、それ以降で32年春までの間、おそらく昭和31年秋から冬にかけてのことだと思います。

 

ルートと時間は

当時住んでいたのは埼玉県浦和市、現在は武蔵野線武蔵浦和駅から500mほどのところですが、当時はまだなく、東北線南浦和駅までおよそ2㎞の道を歩いて出たものと思います。

かなり遠いようですが、父親は東京までの通勤のため毎日南浦和駅まで歩いていたということですので、当時は普通だったのでしょう

そこから電車で新宿へ。現在では30分ほどですが当時はもう少しかかったかも。

新宿発の列車で辰野へ向かったのでしょう。

まだ中央線は電化が進んでおらず、蒸気機関車の牽引する区間もあったはずですが、優等列車は復活しており、急行または準急に乗ったのでしょう。

ただし急行でも新宿辰野間は4時間、準急であればもっとかかったのかもしれません。

辰野からは飯田線に乗り換え。

現在でも辰野飯田間は2時間近くかかりますが、当時は3時間はかかったのでしょうか。

長野の実家から最も近い駅は元善光寺駅ですが、そこから約1㎞、当時はまだ自動車などありませんでしたが、弟(私の叔父)が荷物を持ちに迎えに来たのでしょうか。

そこから歩いて家に向かったはずです。

叔父の顔を見て母もほっとしたことでしょう。

 

これが何のための帰省だったのか、それを聞いていなかったので分かりません。

母の祖父母はそれ以前に亡くなっており、父母はまだ健在、他の誰かの葬儀でもあったのかとは思いますが。

 

なお、飯田線は電化が昔から進んでいたと思い込んでいましたが、今回調べてみて飯田以北は非電化期間が長く昭和30年当時にはまだ蒸気機関車が走っていたようです。

C11などの牽引する混合列車(貨物と客車)が走っていたとか。

その当時の写真は残っていないのでしょうか。見てみたい。

 

 




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