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学校の先生の思い出(その1)

なにかどんどんと記憶が薄れていくようで、覚えているうちに書き留めておかなければという思いから、今度は「学校の先生」についてです。

もう名前も忘れている人が多くなってしまいました。

 

昭和36年、名古屋市立千種小学校に入学した時の担任の先生が田中先生でした。これは別に覚えているということではなく、父が残してくれた写真のアルバムに入学式後の記念写真が収められており、それに担任の名として「田中」とあるからです。

中年の女性のようですが、ほとんど記憶もありません。

なお、学校生活の記憶もほとんど無いのですが、アルバムには賞状が挟んであり、図画コンクールと作文コンクールで優秀だったと書いてあります。

その後の絵の下手さからは想像ができないものです。

 

その1年後、2年生になる時に父の転勤で福岡へ。

福岡市立西高宮小学校に転入しましたが、その時の担任が確か保坂先生と言いました。

これは何となく覚えている名前です。

まだ若い女性の先生で、私の母親などとも近い年齢だったためか仲が良くなり、その後もかなり後まで手紙のやり取りをしていました。

アルバムにはクラス皆と写った写真が1枚ありますが、若々しい姿です。

 

4年になる時にはクラス替えがあり、中年の女性の先生が担任となりました。

この先生には良い思い出はありません。

躾の厳しい人で、給食も残さず全部食べさせるという方針でした。

私は今ではほとんど好き嫌いもなく食べられますが、子どもの頃は肉の脂身や鳥の皮といったものが気持ち悪くて食べられませんでした。

しかし当時の給食は質の悪い肉ばかりで、脂身は臭く、鳥も皮だらけ、なかなか食べられず許してもらえなかった覚えがあります。

 

小学校5年になる時にまたも父の転勤、今度は東京都三鷹市の第七小学校に転校です。

この時の担任は名前が出てきませんが、中年の男性の先生でした。

東京でも伊豆諸島の出身だと話していたことが頭に残っています。

さっぱりとした話し方の記憶が少しだけあります。

 

父は東京勤務になったらすぐに家の建設に取り掛かり、翌年の7月には完成、小学6年の2学期からは茅ヶ崎市茅ヶ崎小学校に通うこととなりました。

その時の担任の先生が中年の女性でした。名前は忘れてしまった。

転校してから卒業までわずかな期間でしたが、幸い友達もできました。

そのグループで先生のお宅に遊びに行ったことがあります。

茅ヶ崎からは電車に乗って二宮の駅から畑の中を歩いたところでした。

 

中学校の入学したのが昭和42年、担任になったのが大学を出て教師になったばかりの石井先生という女性でした。

英語が専門でしたが、授業のはじめのGood morningがまだ記憶にあります。

中学では毎学年クラス替えがあったのですが、私はずっと石井先生のクラスでした。

一学年6クラスの学校で毎年クラス替えがあった場合、三学年ともに同じ担任の先生になる確率はどの程度でしょう。

ちなみに同じく3年とも石井先生が担任という生徒は他に女性が1人いただけです。

3年間お世話になったためか、いろいろとご迷惑もかけてしまいました。

今思い出しても恥ずかしくなるようなことがたくさんあります。

 

(高校以降はその2につづく)




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