本の題名から昨今の墓事情、特に墓じまいや放棄された墓の問題などを論じたものかと思いましたが、それだけにとどまらず、旧石器時代からの墓や弔いというものの歴史的変遷も多く語られるものでした。
日本では火山灰土壌と多雨のために人骨も速やかに分解してしまうため、墓の存在がなかなかつかみにくいのですが、それでも2万年以上前の後期旧石器時代の墓とみられる遺跡が見つかっています。
赤い土を特別に散布した痕跡が残り副葬品とみられるものも発見されています。
縄文時代に入ると大きな石を並べた環状列石も見られ、墓に関係するものと考えられます。
そして弥生時代に入ると権力者の墓が大型化し古墳時代へつながる様式が見えてきます。
「喪に服する」ということが言われますが、この原型が「殯(もがり)」というもので、すでに弥生時代にその源がありそうです。
これは風葬というものともつながるようで、自然に白骨に還るまでの期間を殯として葬儀はその後に行われました。
古式の儀礼のようですが、天皇家の葬儀では昭和天皇の際にも殯ということは行われています。
弥生時代から古墳時代と言われる時期に入ると全国的に巨大な古墳が作られるようになります。
北海道・青森・秋田を除く全国で約16万の古墳が確認されています。
しかし6世紀末になると巨大古墳は作られなくなり小型の円墳などに代わっていきますが、それも646年(大化2年)に出された薄葬令により息の根が止められました。
権力者の墓の規制を行ったのですが、庶民には墓を作ること自体を禁止するという厳しいものでした。
そのため庶民は土葬して墓を作ることすらできず、風葬であったり河原にそのまま埋めたりといったものでした。
仏教と火葬と必ずしもつながるものではないのでしょうが、わが国では仏教の伝来とともに火葬も入ってきました。天皇家の葬儀でも土葬と火葬が時代により揺れ動いていきます。
中世になり高野山が多くの墓を受けいれるなどしたためか墓地というものが作られるようになります。
それが庶民にも及んだのは江戸時代に入ってからのことで、寺請制度というものが始まり檀家と寺の関係が強くなり、寺内に庶民も墓を作ることが一般化していきました。
それが大きく揺らいだのが明治になっての神仏分離令でした。
神道を正当とし仏教は弾圧したのですが、それにともなって1873年(明治6年)には火葬禁止令というものが出されます。
このため建前上は100%土葬となったはずでした。
その墓地も大量に必要となり、東京の青山、谷中、雑司が谷などの墓地もそのために整備されました。
しかし土葬のためには広い敷地が必要で、都会ではまったく供給不能となり、火葬はわずか2年で解禁されました。
大正2年の全国の火葬率は31%でしたが1979年で90%、現在では99.99%となっています。
ほとんどが火葬となってしまった現在、土葬しか認められない宗教の人々が困っています。
特に強い制約のあるイスラム教徒の人々が日本で亡くなった場合の墓を作ることが困難です。
土葬墓地を整備しようという話もあるのですが、周辺住民の抵抗が強いことが多いようです。
地下水汚染の恐れまで持ち出しての反対もあるようですが、ほんの少し前まで日本でも土葬が一般的だったことを忘れたかのようです。
両墓制という風習もあまりよく知らなかったことでした。
遺体と魂は別だという思想から、遺体を埋める「埋め墓」と魂の還ってくる「詣り墓」とは全く別に設けるというものです。
もとは全国的にみられたそうですが、現在ではほとんど残っていません。
企業が従業員の物故者を祀る企業墓というものも数多く作られました。
その最初は1910年の京都の島津製作所が南禅寺に建立したものだそうです。
ロケットの形の新明和工業、コーヒーカップの上島珈琲、ヤクルトの瓶をかたどったヤクルトのものなど、いろいろとあるようです。
庶民の墓というものは、家制度と深く結びついて維持されてきました。
しかし家というものがもはや解体しようとしている中、墓も維持不能となっていきます。
そのため、これまでの墓を閉じてしまう墓じまいということが広く行われるようになってきました。
先祖供養というものも消えていくとあっては自分が入る墓というものも無くなっていきます。
散骨や樹木葬などというものも人気を集めるようになっています。
しかし若年層であっても墓参りというものはするという意識のある人も多いようです。
そう簡単に変わってはいかないものなのでしょう。