天皇家について定められた法律と考えられている「皇室典範」、最近では皇位継承者の断絶の不安、女性天皇を巡る議論、天皇の譲位などの問題が続出している中で話題に上ることもあります。
この皇室典範というものは、実は明治時代に定められたものがあり、それが終戦後に改訂されて現在に至っています。
今も議論となっていることはそういった経緯から出てきたという見方もできます。
そういった皇室典範について、明治の制定当時の状況、太平洋戦争後の改訂と詳しく見て行ったものです。
明治時代中期、憲法制定など様々な法律を定めなければならない時期に皇室に関する法律も成文化することとなりました。
実は皇室に関するそのようなものはそれ以前には口伝などで伝わっているものはあってもはっきりとした法律などはありませんでした。
それを成文化することとなったのですが、伊藤博文が主導する政府の立場と、皇室側の柳原前光とはその思想に大きな隔たりがありました。
柳原が作った試案の多くは伊藤により削られ省かれ伊藤の示す方向に換えられていきました。
皇室側はできるだけ政府の意向から独立させようと図ったのですが、伊藤らは政府の影響力を強くするようにしたかったようです。
太平洋戦争に敗戦し、GHQの影響下に憲法制定などが進められたころ、皇室典範も改変されました。
GHQは新憲法は国民主権などに従うことを強く主張したのですが、その一方で皇室については伝統を残すことを許す方針でした。
そのため、明治皇室典範からそれほど変わらないままになってしまいました。
ただし、形としてはこれも国会議決により制定されたということになり、憲法の下位法律という扱いになりました。
とはいえ、国会での制定論議などはほとんどないままでした。
そのため、譲位についての議論も全くありません。
これは、その当時もしも譲位について触れると昭和天皇の戦争責任を問われて譲位が迫られるのではないかと言う危惧がありあえて触らなかったようです。
またすでに大正天皇以降は側室を持つこともなくなっていたのですが、そういった状況を顧みることもなく、男系男子のみが世襲するということにしてしまいました。
そのためその当時すでに皇位継承権を持つ男性皇族が減少しており、それがその後さらに減り続けることとなります。
なお、戦前は伏見宮などの旧皇族と言われる人々がいましたが、GHQは皇室財産をほとんど没収することとし、さらに旧皇族の皇籍離脱も断行します。
旧皇族の中でも最も多かった伏見宮系はもともと15世紀の北朝崇光天皇から分かれ600年も経っており、血縁的に天皇家と近いとは言えないものでした。
そういった旧皇族を全部整理し、皇族としては大正天皇以降だけに限定します。
しかしその後皇族の人びとからは男子誕生がほとんどなくなりました。
そのため、現在のような皇位継承候補者の激減となったわけです。
皇室典範制定時にはこのような事態は全く想像もしていなかったのでしょう。
しかしその後も時間は十分にあったにも関わらず、議論をしようということもなく、現在の危機的状況となっているわけです。
現在のような「男系男子」のみを皇位継承者とするのではいつかは絶えるのが当然でしょう。
辛うじて現在子孫形成可能な候補者が一人だけいますが、結婚ししかも男子を設けることができるという可能性はそれほど高くはないでしょう。