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「大正大震災 忘却された断層」尾原宏之著

現在は通常、関東大震災と呼ばれている、大正12年地震災害ですが、発生後しばらくは「大正大震災」という名称の方が普通だったようです。

他にも、東京大震災、関東大震火災、帝都大震災など様々な呼ばれ方をしていました。

関東大震災が一般的な呼称となったのは第二次大戦後になってからのようです。

 

これを「関東」と限定してしまうのは当時の政府にとっても問題があったようです。

東京などという危険な場所に首都を置くことに対しての反対論も数多く出てきました。

そういった遷都論を押え、東京を復興させるという方針を定めた政府にとっては「関東大震災」とあたかも関東地区だけの災害のような言い方は避けたかったという事情がありました。

 

他にもこの大震災をめぐって多くの問題点が持ち上がりました。

天譴論、自警団、大阪遷都論、復興神話など、この大正大震災によって引き起こされ、現在ではあまり話題に上ることも少なくなったことについて、詳しく解説していきます。

 

「天譴」(てんけん)とは「神の罰」といった意味の言葉です。

現在では地震津波の被害を受けたことに対して「それは神の罰が下ったのだ」などと言うことはほとんど考えられませんが、大正大震災の後にはそれを公言し、文書として発表する人たちがいました。

東京は享楽の街と化してしまっていたので、神の罰が下ったのだという趣旨でした。

内村鑑三渋沢栄一といった有力人物がそういったことを公表していたということです。

彼ら、明治時代の人物にとっては大正に入ってどんどんと道徳が衰退していったような風潮にはもともと我慢ならなかったところに、大きな震災被害が出たことが無関係とは思えなかったのでしょう。

 

大正大震災の大きな被害を受け、当時の内務大臣兼帝都復興院総裁であった後藤新平の打ち出した復興策というものが、現代でも頻繁に取り上げられ、後藤自身を称揚することがよく見られます。

当時の国家予算の倍にあたる30億円の復興計画を打ち出し、その後かなり減額されるものの4億円以上の予算を費やす事業を行いました。

その後藤が賞賛される一方で、自分の土地に執着し区画整理に反対する中小地主や、政治的思惑で後藤の計画を骨抜きにする長老たちに対しては強い批判が加えられます。

代表的な人物としては枢密顧問官伊東巳代治、政友会総裁高橋是清といった人たちです。

しかし当時のジャーナリスト長谷川如是閑大隈重信をイギリスのグラッドストーンに例える一方、後藤新平はイタリアのムッソリーニに例えています。

日本の幼稚な政治状況の中で強引な施策を取ろうとするのは独裁制に近づくものという認識だったのでしょう。

後藤の復興計画のまず最初の基本となったのは「遷都すべからず」という考えでした。

そこから発した計画には多くの無理もあったということでしょうか。

 

すでに100年以上が経った大震災で、忘れられたことも多くなっているようですが、今後確実に起こるはずの地震を思えばその記憶を保つことも必要なのでしょう。

 

 




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