中国春秋時代の覇者、晋の文公重耳の物語もいよいよ佳境となります。
晋の君主詬諸の公子たちをすべて追い払い、自らの子どもの奚斉を太子とした驪姫でしたが、詬諸はまもなく亡くなり奚斉が即位します。
ところが晋の大臣や大夫たちは奚斉に従うことなく、武力で除こうとクーデタを起こします。
首尾よく奚斉やその母驪姫を殺害した里克などの大臣たちでしたが、それに代わる君主として誰を迎えるか悩むこととなります。
大方は重耳を望むのですが、中には弟の夷吾を推すものもいました。
そして双方がそれぞれ迎えの使者を派遣することとなります。
孤の村にいた重耳のもとにも晋の宮廷からの使者が来ます。
しかし重耳の側近の孤偃はそれを受けることを許しません。
陰謀で公子たちを退けて即位したとはいえ、先代の君主たる詬諸が正式に認めた世継ぎであったのが奚斉であり、それを殺害した大臣たちには咎があります。
彼らの迎えに乗って帰還して即位すれば、彼らの反乱を陰で操っていたのが重耳だったということになります。
今は帰還できる時ではないと孤偃は重耳に説き、使者の迎えを断らせます。
しかしそれを喜んで受けたのが弟の夷吾でした。
夷吾は秦の国の助けも借り、晋に入国し即位します。
その時の秦公夫人は夷吾や重耳の姉に当たる伯姫でしたが、彼女は夷吾に様々な約束をさせて送り出しますが、それらの約束はすべて破られました。
さらに、晋の国で作物が生らず飢饉となって秦に請うて穀物を援助してもらいますが、翌年には逆に秦が不作で晋に穀物の援助を頼むものの、夷吾はあっさりと拒絶し、秦の恨みを受けます。
夷吾も自らの位を脅かすのは重耳だということを承知しており、暗殺を企ててまたも閼楚を派遣します。孤の村ではそれが防げないと感じた重耳は諸国流浪の旅に出ます。
途中で金も食物も尽きた重耳一行は苦しい旅を続けます。
衛の国では期待した食物援助も断られますが、農民から食物ではなく土を与えられ、重耳はかっとなったものの、これは「領土を捧げられたものだ」と諭され農民に拝礼します。
その後ようやく桓公が治める斉の国にたどり着きますが、重耳の実力を周知していた桓公には歓待され、娘を娶せられて多くの財物も与えられ、斉の国政に関わらせようとされます。
重耳はそれを受け入れそのまま斉に留まろうとするのですが、何が何でも晋に戻って即位することを望む孤偃ら臣下たちにより斉の桓公死去の後には斉を去ってさらに流浪を続けることとなります。
宋の襄公には歓待され、楚の成王にはそれを上回る歓迎を受けます。
成王からこの歓待にはどのような返礼をしてくれるのかと問われて答えたのが「三舎の礼」すなわちもしも帰国して即位し、その後楚の国と戦争となった場合でも、三舎すなわち三日分の行程だけ軍勢を退かせると答えたということは有名なものです。
そして楚の軍勢をもって重耳を晋に戻らせるとまで言われます。
ところがこれまでも晋に関わり続けてきた秦がその役はぜひとも自国にと申し入れ、秦に向かって重耳は最後の旅をすることとなります。
重耳の弟で晋公となっていた夷吾は、重耳に従って諸国を旅している者たちの家族や親類を投獄し、戻らなければ殺害すると脅しますが、孤偃の父孤突は断り殺されてしまいます。
ところがそんな時に夷吾は急死してしまい、その息子が即位します。
それが好機と見た重耳や秦公は軍を起こし晋に進みますが、晋の軍はほとんど戦意もなく重耳を迎え、ようやく晋に戻って晋公の地位となることができます。
その後は放浪の旅の間に恩を受けた人や国への報恩、虐げられた国などへの復讐が行われます。
ただし、一緒に放浪した臣下たちでも高位のものたちは大臣などとして取り立てられたものの、多くの臣下たちには十分に報いることができず、介子推が隠棲したり、他にも不満を持った者たちが爆発させることも起きてしまいます。
それでも最後には楚の軍との間に城濮の戦いで勝利し、諸国を鎮めることに成功し、覇者と呼ばれるようになります。
なおその際にも三日分軍を退ける「三舎を避ける礼」を行い、楚の成王との約束を果たします。
重耳が晋の君主として統治したのはわずか9年でした。
しかしその意味の大きさは格別のものと言えるのでしょう。