「中国の歴史」といった本は何冊も読んできましたが、「北京の歴史」というのは面白い着想です。
しかし、現在の中国の首都である北京はその前代の清王朝、明王朝など多くの王朝などでも首都であり、中国では最も重要な都市だったともいえるでしょう。
したがって、この本も「北京の歴史」とは題されていたものの、ほぼ「中国全部の歴史」のような内容でした。
古代中国において、今の北京は華北を中心とした文化系統から見ると北のはずれの辺境でした。
しかしその後の中国では東北系統、西北系統、東南系統の勢力が強まり、それらのちょうど接触することとなる北京が中国全体の中心となるのも当然だったのかもしれません。
殷王朝以前にも北京の地域には孤竹などと呼ばれる氏族がいたという伝説もありますが、はっきりとした都市ができたのは周王朝初期にこの地に封建された燕国が建てた燕城、そして帝堯の末裔を封じたと言われる薊国が築いた薊城で、そのうち薊城が現在の北京の地と近いと言われています。
それはほぼ3000年前の紀元前1045年頃のことと考えられます。
その名の通り、薊(アザミ)が咲く地であったようです。
その後、北方民族が勢力を増し中国に進入することが多くなるとその接点となる北京の地域の重要性も増していきます。
南北朝時代と言われる時期には北朝という王朝は北方から来た民族が強く関与していきました。
隋から唐となってもそれは同様です。
そして唐の時代に反乱を起こしたことが有名な安禄山は北京、その当時は幽州を本拠地とした勢力でした。
安禄山自身はソグド人と突厥人の混血と言われていましたが、この幽州で勢力を増したため、反乱時に用いた国号も「燕」としていました。
宋王朝が衰微していく時に東北から進出してきたのが金でした。
金は中国東北部から発した女真族ですが、徐々に南方に向けて勢力を広げました。
そして1141年には宋王朝との間に和議を結びますが、その中で「宋の皇帝は金の皇帝に臣下の礼を取る」と定められており、これをもって金が中国支配を成し遂げたと見ることができます。
その金が海陵王の時代に現在の北京に遷都した1153年が初めて北京が中国の首都となった時と言うことができます。
それまでの「燕都」という名称をはじめて「中都」と改名しました。
現在の中国でもこの時を北京建都と捉えており、2003年には「建都850年」記念行事が行われました。
16世紀末には日本の豊臣秀吉が明に攻め込むという、文禄慶長の役を起こしますが、その時に秀吉の皮算用では明朝征服後のプランとして「年内に秀吉が北京進駐」「翌年に大唐関白を秀次に引き渡す」「後陽成天皇を北京に移し遷都する」「北京周辺は内裏御料所とする」「秀吉は寧波を領する」と決めていたそうです。
あまりにも身勝手な空想にすぎませんが、その中でも北京という都市が中華世界の中心だという認識は秀吉にも共有されていたようです。
その後も北京が中国世界の中心であったことは変わらず、現在も中華人民共和国の首都として中国の中心であり続けています。