中国戦国時代の「戦国四君」の一人として有名な孟嘗君田文の物語です。
歴史背景は、周王朝初期に太公望の子孫が封じられた斉の国は長く姜氏の君主が続いていたのですが、春秋期に陳国より亡命してきた貴族が徐々に力を増し、戦国時代になって姜氏の君主に取って代わり、田氏の君主の国としてしまいました。
物語の主人公田文の父の田嬰は君主の弟で有力者でした。
しかし追いやられた姜氏の君主の家臣だった人びとは野に下りながら田氏の政権に反抗していました。
田嬰が気まぐれに手を付けた侍女が妊娠したので妾としましたが、それで生まれたのが田文でした。
しかしその誕生日が五月五日だということで、田嬰はその子を殺せとその母青蘭に命じます。
五月五日生まれの子どもは親に害を為すという迷信を聞かされてのことでした。
嘆き悲しんでいた青蘭に声を掛けたのは下働きの僕延という下人でした。
実は僕延は以前の姜氏政権に仕えていた射弥という人物の配下で、田嬰の動きを探るために潜り込んでいたのでした。
しかし僕延は青蘭の涙を見て子供を救おうとし、犬が死んだと偽って運び出し射弥のもとに子供を運び託します。
ところがその夜に射弥の家は襲われ、射弥一家は惨殺されるのですが、赤子はそのまま残されたのでした。
そこに通りかかったのがこの巻の主役とも言うべき、風洪という人物でした。
風洪は遊び人というしかないのですが、剣術の腕は抜群、商人の荷を警護すれば盗賊に襲われることもないと商人からも尊とばれる人物と描かれています。
この後の展開は非常に複雑で、説明するのも面倒なほどですのでざっと述べるのみとします。
風洪とその妹風麗はある事件により斉を離れざるを得なくなりますが、その後向かったのは風麗が結婚の約束をした公孫鞅のいる魏の国でした。
魏の宰相公叔痤に仕えていたのですが、ちょうど公叔痤の病が篤い時でした。
その折の挿話は史書にも詳しいところです。
時の魏王は恵王ですが、臨終に近い公叔痤のもとを見舞いに訪れ、宰相亡き後誰をその座に据えれば良いかと聞いた時に公叔痤は我が家臣の公孫鞅をと推挙します。
しかしそれに従う気配のなかった恵王に、公叔痤はならば国外に出すことなく殺してしまえと言います。
恵王が去った後、公叔痤は公孫鞅にそれを告げ、すぐに国外に逃れよと言うのですが、公孫鞅は宰相に据えよという言葉を聞きもしない王が殺せという言葉も聞くはずもないと答えます。
公孫鞅の見立て通り、恵王は公孫痤がもはや正気ではないと思い、そのどちらの進言も聞く気もなくなっていたのでした。
それで魏に見切りをつけた公孫鞅は風洪たちと共に天下に人材を求めていた秦の国に赴くこととします。
当時の秦はまだまだ辺境の小国でしかなかったのですが、時の君主考公はそこからの飛躍を望み他国からも人材を招聘しようとしていました。
そこで側近の宦官景監に金を贈り考公との面談を取り次がせ、公孫鞅はまんまとその気持ちを掴み取り立てられることとなります。
風洪は妹風麗とその侍女の翡媛、そして斉の国で巡り合った赤子、後の孟嘗君田文を公孫鞅に預け、一人で勉学の師を探す旅に出ることとします。
この巻では主人公孟嘗君はまだほんの赤子、それを拾った風洪が話の中心となり活躍していきます。